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  巽 健一  
  『乗馬の記憶』 (その2)
  ーわが青春暗黒記ー 
 

エッセイ 1−2   
(株)電通を経て
金城学院大学 元教授
社会学

横浜市

 このようなアルサロ・ボーイ生活がスタートすると同時に、私はお目当ての乗馬クラブに入会した。
それは、三宮北方の摩耶山の山麓に当たる布引きの滝近くの「布引乗馬クラブ」だった。この乗馬クラブは三宮からバスで10分余りの場所にあり、山の斜面を削って上下2ヵ所の馬場をつくり、その横に厩舎と事務所を備えたものだった。入会費を払って会員になると、1回騎乗ごとの料金は一見の客に比して格安でしかも時間制限がないので、夜の勤務の前に毎日のように通った私には好都合だった。馬好きの金持ちが道楽でやっているらしいこのクラブは、客の入りはあまりよくなく、そのため7〜8頭いる馬はいつも暇だったので、常連の私はいつでも思う存分騎乗することができた。

 乗馬クラブのスタッフは、調教師1名、馬丁1名だけだった。調教師は短躯の元競馬騎手で、50歳ぐらいの人だった。彼は好人物で、馬の調教にあまり時間を割く必要がなく、来場客も少なかったので、根っからの初心者である私を熱心に訓練してくれた。私たち会員は、彼を「先生」と呼んでいた。

 初心者はまず、小さな円を描くように馬を乗り回す「輪乗り」、前後左右に馬を動かす動作、楕円形の馬場の内側に沿って並足(歩く)・速歩(小刻みに走る)・駈足(歩幅を広くして速く走る=ギャロップ)で行進、といったことを覚えるのだが、それらの練習を予想もしなかった裸馬で行なうのだった。その理由は、鞍も着けず鐙もなしで裸馬に乗ると、騎乗者が落馬しないように自然に馬の胴体を締めつけるので、締めつけながら次に行うべき動作を馬に合図して伝えるのがスムーズに行えるから、ということだった。

また、初心者が鞍に鐙を吊るし、鐙に足を掛けて乗馬する場合、ともすれば乗り手が鐙に頼りすぎて馬の胴体を締めつける両脚が緩み、鐙に足と身体の重みが掛かり、その重みで馬が動きを止めてしまう、という悪い結果につながりがちである。したがって、鞍と鐙を着装した場合でも、裸馬を御するつもりで騎乗するのが乗馬の基本なのだ。そうは言っても、初心者が裸馬に乗ると必ず落馬する。そのとき頭を地面に打ちつけると危険なので、手綱だけは着装し、落馬しても手綱を放さず、頭が地面より高いところで止まるようにする。このやり方を教えてもらったとき、私は西部劇に出てくるインディアンが縄でつくった手綱だけで裸馬を乗り回している情景を思い出し、そんな乗り方でも優に米軍騎兵隊に対抗できた理由が理解できた。

こうして私は、来る日も来る日も落馬し続けて、ようやく少しは馬を統御できるようになった。すると、次は障害飛越である。これも、少しづつ障害のバーを上げて行って、のちに1メートルぐらいの高さが飛べるようになった。
 私は後に述べるように、最初の目論見であった西日本での漁船乗組みを中止して、4ヵ月後に家へ戻ったのだが、その後も2〜3年間は布引乗馬クラブに通い続けた。この間、調教師は同じ人だったが、馬丁は辞める人が多く、私は3人の馬丁に出会った。馬丁といえば下働きのイメージが強いが、彼らはれっきとした馬術の専門家である。実は、たまたまこの3人は戦前の日本陸軍の騎兵だった。全員職業軍人ではないらしく、階級は下士官か兵卒であった。彼らは外地を転戦したりして長年軍隊の飯を喰ったのち、敗戦のため突如除隊となり、ほかに手に職がないため、習い覚えた乗馬関係の仕事に就くしかなかったようだ。

 最初の馬丁は最も軍人らしい感じの人で、階級は曹長だったと思う。この人は、ひょっとすると召集されて二等兵で入営したのち現役志願による職業軍人(軍関係の学校を出ていないので最高で特務士官…陸軍の場合は「准尉」…止まり)に転じたのかも知れない、と思わせるものがあった。何しろ会話や挙措動作がハキハキとして折り目正しく、また騎兵らしい長身の姿勢が見栄えした。クラブの経営者が馬場に来て彼を昼食に誘ったときなど、感謝と恐縮の気持ちを表す言葉遣いが汚い作業着に相応しくないほど堂に入ったものだった。私はそれを聞いて、たぶん軍隊で上官にこのような言葉遣いをしていたのだろうと思った。

彼の主な戦歴は、中国戦線で南京攻略に参加したことだった。この戦いは野戦ではなく攻城戦だったので、騎兵の出番は少なかったようだが、南京陥落のときには彼の言葉を借りると「歩兵も騎兵も一斉に城門に突入した」そうだ。いわゆる“南京虐殺事件”は極東軍事裁判で取り上げられていたが、当時世間でそれほど話題になっていなかったので、彼も話さなかったし私も聞かなかった。

 2番日の馬丁は、最初の人とは対照的にハキハキ感がなく言葉も鈍重で、階級もあまり高そうではなく、いかにも田舎出の召集兵に見えた。しかし意外にも、実戦経験ではこの人がナンバー・ワンだった。彼は熊本師団に所属し、1939(昭和14)年のノモンハン事件に参加している。ノモンハンでは、空中戦は日ソ拮抗したものの、地上戦は戦車と長距離砲に勝るソ連軍が日本軍を圧倒した。

近代兵器が威力を発揮したノモンハンの地上戦で、騎兵隊は偵察行動しか出番がなかったが、ごく稀に草原の真ん中で双方の騎兵集団が遭遇することがあった。彼の話では、このとき日本軍は絶対にソ連軍に勝てなかった。かつて日露戦争で出撃してきたロシア軍騎兵はコサック(ロシア中央部の南方に位置する辺境の騎馬民族)だったが、40数年後のソ連軍騎兵も日露戦のときのような長槍突撃こそしないものの実質はコサックで、馬術の巧みさもさることながら、馬匹の優秀さが際立っていたという。

両軍の騎兵隊が遭遇したとき、戦端を開く前に有利な戦闘拠点(丘陵、岩陰など)を占拠することや、散在している味方の騎兵を戦闘拠点に急遽集結させることが、勝つための絶対的必要条件である。そのとき物を言うのが、両軍の騎馬の速度なのだ。いち早く有利な拠点に多数の兵力を集め、態勢の整っていない敵軍を攻撃すれば、勝利はまちがいない。その点で、優良種を豊かな牧草地で育成したコサックの騎馬に日本の騎馬がかなうはずがなかった。彼の部隊はこのような遭遇戦で負け続けたが、敗勢に陥った途端に日本軍騎兵隊は分散して散り散りに逃げるほかなかった、とのことだった。集団のまま逃げるとまとめて殲滅されるが、散り散りだと追跡する敵軍の兵力も分散されるので生き延びる確率が高いのだ。彼はそのようにしてノモンハンの苛烈な戦場から生還し、16〜7年後に平穏・閑散な乗馬クラブで馬の世話をしているのだった。

 3人目の馬丁は、国内勤務のみの戦場体験のない人で、以前の2人のような騎兵らしい大柄な体格ではなかった。彼の部隊は内地のどこかの都市に駐屯していて、アメリカ軍の空襲を受け警戒体制を敷いていたところ、乗っていた馬が爆撃音に驚いて兵営に駆け込み、馬房の中を走り回ったので彼のサーベル(騎兵は他の兵種とちがって下士官や兵卒でもサーベルか軍刀を腰に吊るしていた)が柵や壁に当たり散らして目茶苦茶になった、とのことだった。彼が戦争によって蒙った被害は、幸いなことにこれだけで終わり、無事に戦後を迎えることができた。

 では、競馬騎手上がりの調教師は戦時中どうしていたか。競馬騎手は平地を全速で駆け抜けることが本領だから短躯・軽量の体格が要求されるが、一方あらゆる地形で騎馬を操りながら馬上戦闘に携わる騎兵には長身・長脚が要求されるので、競馬騎手が騎兵に採用されることはなかった。しかも彼は戦時中すでに徴兵適齢期をすぎていたので、兵役に就くことはなかった。そのころ彼は神戸市(警察か消防)に徴用され、空襲で市の通信網が杜絶したときに、騎馬で緊急情報を各所に伝達する仕事をしていた。それは、まだ敵機が上空に残っているときに炎が燃え盛る市街地を疾駆するなど、危険な仕事だったようだ。

 私か出会った元騎兵の3人の馬丁は、調教師の「先生」とはちがった観点から初心者に教えることができたと思うのだが、彼らは分を弁えてのことか、私達の訓練に口を差し挟むことは皆無であった。

 ふだん、特に平日は閑散としていた布引乗馬クラブにも、ときどき非常に賑やかになる日があった。それは、近くの神戸大学や甲南大学の馬術部の学生が練習のためにクラブの馬場を借りに来るときだった。彼らは部の所有馬に乗って来場し、2段構造になっている馬場の上の方を借り切って練習した。私がこのクラブに人会して1〜2ヵ月たって少し乗れるようになったころ、神戸大学馬術部とクラブ会員とが合同で神戸市内を「外乗」(馬場から外に出て騎乗すること)する機会があった。平日だったのでクラブ会員は少なかったが、大学生はかなりいて、総勢16〜7人が参加した。予め調教師が警察の許可を得ていて、神戸市の東部の決められたコースを行進することになった。

 冬の曇り空の当日、調教師が納屋から引っ張り出して来た古ぼけた馬車に乗って先頭に立ち、騎馬隊がそれに続いた。なぜ先頭が馬車かというと、馬車のスピードは少し遅いので、後続する騎馬がスピードを出しすぎるのを制御しやすいという理由だったようだ。神戸市内で騎馬行進ができたのは、当時は自動車が普及していなかったからで、今ではもちろん不可能である。私たちは、通行人を驚かさないように信号付近の人混みでは並足で通過したが、人通りが少ないところでは速歩や駈足で走った。

市内の騎馬行進はめったにないことなので、通行人たちは物珍しそうにこちらを眺めていた。私はそのとき、19世紀のウィーンの街頭をオーストリア帝国騎兵隊がズッペの「軽騎兵序曲」の楽隊演奏とともに群衆に見送られて行進する情景を連想したが、そんな妄想を抱いたのは私だけにちがいない。こうして小1時間の行進を終えて、私たちの騎馬隊は事故なく無事に布引に帰還した。私はこののち何回か山野での外乗を経験したが、市街地での外乗はこのときだけで、貴重な楽しい経験だった。

 布引乗馬クラブでは、このような華やかな出来事だけではなく、心痛む出来事もあった。ある日アメリカ兵が一見客として来場したのだが、彼は一人の日本人女性を連れていた。それは、一目見て外人相手の売春婦(当時パンパンと呼ばれていた)だとわかる女性だった。アメリカ兵は乗馬の経験はなさそうで、物珍しさから来場したのか、せっかく来たのにあまり乗らなかった。その彼が彼女に乗ることを勧めたため、彼女が馬上に上がったのだが、まったく訓練を受けていないので、すぐに落馬した。尻から落ちればよかったのだが、正面から落ちたため、まともに胸を強打した。彼女が「痛い、痛い」と言ったので心配したのだが、そのうちに痛みがおさまり、彼らは帰って行った。私はこの一部始終を目撃していたので、後で痛みが出たり病気になったりして、もともと不幸な身の上の彼女がもっと不幸になるのではないか、と心配した。しかし、彼女が無事だったのかどうか、私には知る由もなかった。

 クラブの会員で私のように毎日来場する人はいなかったが、常連といえる顔見知りの人たちが何人かいた。一番よく出会ったのは、近くの川崎重工に勤務するS氏だった。彼は早大理工学部出身の技術者で、小柄だが血色のいい30歳過ぎの好男子だった。かなりの乗馬経験があるようで、その腕前は会員の中でも1、2を争っていた。そして彼が来場するとき、たいてい25歳ぐらいの感じのいい女性と一緒だった。この人も、女性としてはなかなかの腕前だった。彼女はハキハキした感じて、長身のBG風(BGはビジネス・ガールの略、当時OLという言葉はなかった)だった。もしかすると、S氏の職場に勤務していたのかも知れない。S氏はたしか妻子持ちだったが、いつもピタリと彼に寄り添っている彼女を見ていると、この2人の間には親密な関係がありそうな気がした。彼らは、土曜日の午後や日曜日にはたいてい来場していた。

 S氏と彼女ほどではないが、よく見かけたのはクラブの経営者・M氏とその孫の女子高校生だった。M氏は白髪の恰幅のいい老紳士で、その孫も容貌、体格ともに申し分のない女性だった。M氏の馬術はなかなかのもので、無口でおとなしい孫もS氏の彼女を凌ぐほどの腕前だった。

 このクラブには、会員ではないが日本で有数の一人の馬術家がしばしば来場した。この人は荒木雄豪といって、のちに1 9 6 4 (昭和39)年の東京オリンピックの障害競技に出場した名騎手である。彼は当時20代後半に入った年頃で、京大理学部を卒業して大学院で地球物理を専攻していた。何でも胃を切除した直後だとのことで、食が細く、顔色が悪く、馬術家らしい長身の体躯は痩せていた。彼はこのクラブの顧問格のような立場で、馬術指導や馬匹の購入・育成・調教などのアドバイスをしたり、彼が出入りすることでクラブのステータスを向上させたりしていたのだと思う。しかし私のような初心者にとって彼は雲の上の人であり、指導を受ける機会は皆無であった。

以下は今になって思うことなのだが、馬術競技に出場するような人は自馬(自分の専用馬)を飼っている馬場で自馬に乗って練習するのが普通なのに、彼はなぜ良馬がいないこのクラブに来ていたのか。おそらく病み上がりの彼には本格的な練習はまだ無理で、ペースを取り戻すためにこの馬場でのんびり馬に乗りながら、小遣い稼ぎをしていたのだと思う。彼が騎乗するところを何回も見たが、激しい練習をするのを見たことがなかった。馬好きのクラブの経営者が彼を招いて顧問料を支給し、スポーツの中でも金がかかる馬術競技の有力選手を支援していたのだろう。

 この荒木選手がのちに東京オリンピックの障害競技に出場したとき、私はテレビで見たのだが、当然のことながら身体はすっかり元気そうだった。彼の成績は30位ぐらいだったが、それでも敗戦によってドン底まで落ち込んだ日本馬術界の関係者たちは、世界の強豪に挑んだ彼の健闘にその後の日本の馬術復興の芽生えを見いだした。もともと西洋流馬術後進国であった日本の馬術界は、陸軍騎兵隊に依存するところが大であった。選手育成、馬匹向上、設備充実、海外遠征などの費用負担の点て、騎兵隊の存在は欠かせないものであり、戦前のオリンピック馬術競技の出場選手のほとんどが騎兵将校であった。その頂点を極めたのが、1 9 3 2 (昭和7)年のロサンゼルス・オリンピックの障害飛越競技で金メダルを獲得し、アメリカの紳士淑女の間で「バロン西」として人気があった男爵・騎兵大尉(当時)の西竹一(のちに硫黄島の対米戦で戦死)である。

しかし敗戦によって騎兵隊という後ろ楯を失った日本の馬術界は、オリンピックに選手を送り出すことすらできず、本格的に参加したのはおそらく東京大会が戦後初めてだったと思う。こうして日本の馬術復活の先鞭をつけた荒木氏は、それ以後新聞のスポーツ欄などでその名を見かけることがなくなったが、それから25年ぐらいたった1980(昭和55)年ごろ、東京でサラリーマン生活を送っていた私は近郊の書店で思いがけず彼の名を見つけた。そこで偶然彼の馬術に関する著書を発見したのだ。その本には、懐かしい彼の乗馬姿の写真があり、著者紹介欄には彼の輝かしい馬術歴とともに「京都産業大学理学部教授(地球物理学)」という現職が記されていた。

 さて私は相変わらず毎日練習を重ね、下手糞ながら少しづつ上達していた。その年の年末近くなって、クラブの忘年会があって私も出席した。そこには経営者のM氏、彼の孫(女子高校生)、会員のS氏、S氏の彼女らといった常連に荒木氏も加わり、10数名が酒を酌み交わした。そのとき酔った勢いのせいか、M氏とS氏が馬術に関する議論を始め、互いに自説を主張して譲らなかった。若いS氏が遥に年配のM氏に配慮して自説を引っ込めればよかったのだが、猛烈な乗馬好きのS氏にはそれができなかったらしい。

遂にM氏が「俺はもう年だから乱暴なことはできないが、うちには若い者がいくらでもいるから、いつか彼らをお前のところに差し向けてやる」と、脅迫めいた言葉を吐いた。このときは荒木氏が中に入って収めたので事なきを得だのだが、私は温厚な実業家だとばかり思っていたM氏の豹変ぶりに驚き、もしかするとこの人は神戸港の荷揚げ請負い業の親分なのかと思った。私が勤めていたアルサロの経営者は見るからに裏世界の住人だったが、このM氏もそれに近い世界の人だとすると、私は夜に裏世界の男に雇われて生活費を稼ぎ、昼には裏世界ルーツの乗馬クラブで遊ばせてもらっているのだと、自分自身が表世界からの脱走者であるくせに、何となく違和感を覚えた。

(その3(次回)につづく)ーーーーーーー

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