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巽 健一    随筆 「明治」は「昭和」に近かった

(2015.07.03)
 (株)電通を経て
金城学院大学 元教授
社会学

横浜市在住
「明治」は「昭和」に近かった
                   巽 健一


 「降る雪や 明治は遠く なりにけり」という有名な句は、俳人・中村草田男が大正
か昭和の初頭に詠んだものである。それから何年かたった昭和9(1934)年に生ま
れた私にとって、長年の間、「明治」はさらに遠かった。
 ところが、私が中年近くになった頃、急に明治を近く感じるようになった。それは、
明治と昭和の間の大正時代が僅か15年で短かかった、というような物理的時間の問題
ではない。明治を身近かに感じる理由は、私がそれまで明治の人だと思っていた歴史上
の人物の多くが、意外なことに私が生まれた頃まだ存命だったことに、改めて気づいた
からである。

 私が子供の頃、島崎藤村作詩によるラジオ歌謡『椰子の実』の歌声をよく聴いた記憶
がある。『夜明け前』などの小説の名作や叙情的な瑞々しい詩歌を明治時代に発表して
いた藤村を、私は明治の文豪として、すなわち過去の人として、認識していたのだが、
実はその頃まだ生きていて、私が国民学校(小学校が戦時中に改称)の2年生だった昭
和17年に没したということを、後に知ったのである。また、藤村がこの詩を作るに当
って、その発想素材となる話題を提供した友人の民俗学者・柳田国男は、藤村よりもさ
らに長命で、戦後10数年たって没している。

 伝聞によると、この2人が愛知県・渥美半島の突端にある伊良湖岬を訪れた時、海岸
に椰子の実が流れ着いたのを見た柳田が、その実はおそらく琉球列島に属するいずれか
の島から流れ着いたのだろうと、藤村に語ったようである。柳田のこの推論は、彼の著
書『海上の道』などに記された自説をベースにしたものと考えられる。この話を聞いた
藤村が「名も知らぬ遠き島より 流れ着く椰子の実一つ」と歌ったのが、後にラジオ歌
謡になったのであろう。作詩の時期を正確には知らないのだが、おそらく昭和になって
からだと思う。まだこの頃、藤村は作詩を続けていたのである。

 また明治政府の官僚だった柳田は、公務の傍ら行っていた民俗学研究の成果を、明治
末期には発表しはじめていたのだが、さらに第2次大戦後に至っても研究を続け、私が
社会人になった昭和30年代、まだ彼の書くものを新聞などで読む機会があった。彼が
死去した時、それを報ずる新聞の扱いの大きさを見た私は、この明治の偉人は昭和の人
でもあったのだ、と認識を新たにしたものである。

 昭和17年といえば、明治を代表する歌人・与謝野晶子もこの年に没している。浪漫
派の女王であった彼女が、詩誌『明星』に拠って旺盛な創作活動を行ったのは明治末期
だったが、その後も創作意欲が衰えることはなく、没する直前にも第2次大戦に出征す
る子息を励ます歌を作っている。私が覚えているその歌の出だしは「水軍の大尉となり
て我が四郎」というフレーズで、職業軍人ではなく官僚(?)だった子息が徴兵で海軍
大尉に任官して前線に赴くのを見送ったものである。以下、この歌について少し余談を
試みたい。

                      -1-
 私はこの歌を正確には覚えていないのだが、以上のフレーズの後に「御戦(みいくさ)
に馳せ参じ」「猛(たけ)くあれ」などの勇ましい鼓舞激励のフレーズが後続するので
ある。かつて日露戦争に際して、陸軍に招集されて旅順攻略に赴いた実弟の身の上を案
じ、自らは前線に赴かずに後方で戦闘指令を発する明治天皇を批判しながら、「ああ弟
よ君を泣く 君死に給うことなかれ」と歌った反戦の心とは正反対の様変わりである。
これに気づいた私は、時代の流れと人の心の移り変わりに感無量の思いを禁じ得なかっ
た。なお、この歌の冒頭で「海軍」というところを「水軍」と読み替えた晶子に、私は
修辞(レトリック)の才を感じ取った。海軍ではあまりに平凡だが、敢えて水軍(「海
軍」の古語)にすると、その文辞的意外感が読む人にある種のインパクトを与えると思
うのである。この修辞はまた、この頃の時代相にもマッチしていた。対米開戦の前後か
ら、神武天皇の東征などの古代神話がしばしば取り上げられるようになり、古歌『海行
かば』に信時潔が曲を付けたものが、国民歌として随所で歌われていた。晶子はこの世
相に敏感に反応して、水軍という古語を選んだのかも知れない。

 さて本題に戻り、明治が意外に昭和に近いというテーゼについて、もう一つ晶子に関
するエピソードを紹介しておく。私が広告会社・電通の大阪支社に勤務していた20代
の頃、社内に私より3~4歳若い中井紅弥(あかや)という女性コピーライターがいた。
ある時、私が彼女に「君の名前は変わっているけれど素敵だね。誰が名付けたの?」と
訊いた。すると彼女は「母の知人だった与謝野晶子さんに付けて貰った名前で、とても
気に入っています」と答えた。私は驚いたが、考えて見れば彼女が生まれた昭和12~
13年頃、晶子はまだ健在だったのだ。東京住まいの晶子だったが、もともと堺市の出
身(羊羹の駿河屋)だったので、在阪の中井家とは何かの縁があったのだろう。この話
を聞いた私は、晶子を明治の歌人だと思うと同時に、昭和の中井家の知り合いの小母さ
ん、と思うようになったのである。

 晶子の伴侶の鉄幹もまた、晶子の死去の少し前まで健在だった。明治時代に浪漫派の
詩歌の砦として詩誌『明星』を創刊し、誌上で自身、妻・晶子、その他多くの新進歌人
の作品を世に問うた鉄幹は、昭和にいたっても活動を継続していた。その一つが、昭和
13年頃の戦時歌謡『爆弾三勇士』の作詩である。ここでまた、少し脇道に逸れて、こ
の歌について述べてみたい。

 爆弾三勇士のエピソードは、日中戦争のさ中、上海の戦闘で起こったものである。日
本軍の歩兵部隊が中国軍陣地を攻撃した時、鉄条網に遮られて歩兵の前進が不可能にな
った。そこで日本軍は、爆弾筒を携行した工兵を鉄条網の近くに突入させ、その場所で
点火して鉄条網を爆破し、歩兵の突入を可能にするという作戦に出た。ところが、その
工兵が点火作業中に敵弾に倒れて点火できない。そこで、後続する工兵3名が事前に点
火した爆弾筒を抱えて突進し、それを鉄条網に投げかけて爆破し、歩兵の突撃を可能に
したのだが、その爆裂によって3人の工兵は爆死した。決死の覚悟で勝利を導いたこの
3人の工兵は、「爆弾三勇士」と讃えられたのである。

 この軍国美談に賛同したある新聞社(朝日、毎日?)が、これを讃える歌謡の作詩を
公募し、鉄幹がそれに応募したのだ。鉄幹のようなその道の大家が応募してくれたのは、
当の新聞社としても想定外だったが、それだけに彼の作品を無視する訳に行かず、それ
を当選作とした。それが、「廟行鎮の敵の陣」というフレーズではじまる勇壮な歌である。

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 与謝野鉄幹の最大の文学的業績は、明治時代における星董(せいきん)派としての
活動である。星と董(すみれ)に象徴される、若者や女性のロマンを歌い上げた鉄幹が、
このような戦時歌謡の作詩に手を染めるのを意外と思う人がいるかも知れないが、鉄幹
の本来の体質を顧みると決して意外ではない。彼は星董派として売り出す前は、「虎の
鉄幹」という異名で呼ばれる国権主義歌人であったのだ。日清戦争勃発以前、鉄幹は征
韓派の壮士や論客と交わって気炎を上げ、対外進出を煽るような勇壮な歌を詠み、実際
に韓国にも出掛けている。このように、もともと彼が晶子以上に時流に流され易い体質
だったとすると、この戦時歌謡の作詩は決して意外なことではないといえよう。

 さて本題に戻ると、昭和10年代に私たちが聴いていた「椰子の実」や「爆弾三勇士」
の歌詞は、上に見たとおり、明治時代がその最盛期であった有名文人が昭和初期に作っ
たものであった。これらの歌謡が盛んに歌われていた数年後、第2次大戦の敗北に逢着
しながらも幸いに生き延びた私たちは、明治末期の日霧戦争を戦った2人の海軍軍人に
その多くを負うたのである。その2人とは鈴木貫太郎と米内光政で、2人とも海軍兵学
校卒の職業軍人であるが、いずれも後に日本の難局に際して総理大臣を務め、事態を収
拾すべく努力した。

 鈴木は日露戦争当時、水雷挺の艇長として従軍し、日本海大海戦では東郷平八郎の連
合艦隊の砲撃で破損されて逃げ惑うバルチック艦隊の艦艇を捕捉撃沈し、多大の戦功を
挙げた。海軍を退役した後、昭和天皇の侍従長に就任し、天皇の信任厚く、昭和11年
の二・二六事件では「君側の奸」として決起部隊の標的となり、瀕死の重傷を負った。
その後は公職を辞して野に下っていたが、昭和20年4月、日本の敗北を予期した和平
派勢力に推挙されて総理大臣に就任した。彼の真意は講和の締結であったが、天皇の意
を体して軍部の暴発を抑えるその政治工作は容易ではなく、沖縄、広島、長崎の悲劇を
防ぐことが出来ずに時間が過ぎ、ようやくソ連参戦の直後に講和(無条件降伏)を成立
させることができた。この間の激務が崇ったのか、すでに高齢だった鈴木は、戦後間も
なく逝去した。戦線が本土に及ぶ前に講和を成立させて多くの日本人の生命を救った彼
の功績は、讃えられて然るべきものである。

 米内は海軍では鈴木の数年後輩で、日露戦争にも従軍していたが、その戦績はあまり
知られていない。彼はその後、佐世保鎮守府長官などの要職をへて、昭和10年代
に海軍大臣に任じられた。その頃、陸軍を中心に日独同盟を結成して米英に戦いを挑む
べしという動きが活発になった。もともと「不戦海軍」を標榜していた海軍でも、この
動きに同調する分子が多数を占めるようになったが、米内は次官・山本五十六、軍務局
長・井上成美と組んで(この3人は「海軍左派」と呼ばれた)、反戦工作に
力を尽くした。しかし、山本が連合艦隊司令長官に就任して海軍省を去り、右腕を失っ
た米内は後に総理大臣に就任して開戦に抵抗したものの、時に利あらず、開戦の止む無
きに至った。そして一時公職を退いたが、敗戦間近かになって、鈴木首相の下で米内は
再び海軍大臣に登用され、鈴木と気脈を通じて講和への道を開くのに尽力した。彼もま
た鈴木同様、戦後間もなく逝去した。

 以上のとおり、日本が流血の惨事を見ることなく無条件降伏することができたのは、
当時過去の人と思われていた(特に鈴木)、これら2人の海軍軍人の努力によるところ
が大きい。ところで、私が鈴木より若年の米内から「明治の人」という印象を受ける理

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由の一つに、彼の中学時代のクラスメートの存在がある。米内は明治30年前後に岩手
県立盛岡中学(現・盛岡一高)を卒業したのだが、同級生に天才歌人・石川啄木と国語
学者・金田一京助がいた。アイヌ語の研究で名を成した金田一は米内よりも長命で戦後
も活躍したが、肺結核で明治末期に早世した啄木はいかにも明治の人であり、この有名
歌人と同級生だという米内を私は同じく明治の人と見なしていたのである。

 以上、明治時代に活躍した有名人が私が生を享けた昭和初期に存命で、しかもなお存
在感を発揮していた事例を、縷縷書き綴って釆た。しかし、さらに驚くべきことに、幕
末の日本史に登場する人々の中で、私が生まれる前後まで存命だった事例があるのだ。
 一昨年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公のモデルになった、会津藩砲術指南
役・山本家の山本八重が、その一人である。彼女は女性ながら贅力に優れ、重い鉄砲を
操れたため、兄・覚馬に銃砲術を習い、戊辰戦役の会津城攻防戦で活躍した。会津藩降
伏後は、新政府による京都府の顧問に就任した覚馬を頼って西下し、同志社大学の創立
者となる新島穣と結婚してクリスチャンとなり、女子教育の推進と赤十字看護婦の養成
に力を注ぎ、夫の死後も長命を保ち、昭和7年に没している。

 そして、同じ会津藩の有名な白虎隊の生き残りの人物が、八重と同じく昭和7年に没
している。彼(氏名忘却)は飯盛山で切腹したが一命を取り留め、農家に匿われて藩の
敗北を迎え、以後小樽に渡って電信技師として一生を終えた。彼が白虎隊で活動したの
が16~17歳だったとすると、享年80歳前後であり、そこから推測すると八重の享
年は85歳前後であろう。

 八重の山本家が昵懇にしていた家老・山川家の次男某(名前忘却)は、白虎隊員であ
ったが、出撃下限年齢16歳に達していなかったので、後方陣地に留まって存命し、後
にアメリカに留学して物理学を修め、帰国後東京帝国大学理学部教授となり、総長も務
めた。彼は東大退官後、九州に「明治専門学校」という工業高専を設立し、自ら校長と
して中堅技術者の育成に尽力した。この学校が、現在の九州工科大学である。彼もまた
昭和10年前後まで存命で、長年にわたって日本の理工学教育に多大の貢献を成した。

 幕末の歴史に残る人々が昭和初期まで生存して活躍したという事例が、たまたま会津
藩由来の人物に偏ったが、ほかにも大勢いたことが容易に推測できよう。江戸時代の生
まれであろうが、明治時代の生まれであろうが、その人々の足跡が私の出生前後に及ん
でいることに、改めて感銘を受けるのだが、考えてみればそれは単純に寿命の問題であ
るに過ぎない。そんなことに、なぜ感銘を受けるのだろうか。

 それは、昔の人だと思っていた有名人が、気づいてみると自分に近い時期まで生きて
いて、しかも自分もしくは同時代人が何らかの影響を受けていた、ということの意外感
によるものであろう。そして私の場合には、さらに多少の副次的な理由があるかも知れ
ない。私は歴史を顧みる時、時代の変化の中に「非連続性(断絶)」よりも「連続性」
を感じたい性分なのである。時代の大きな変わり目には、たしかにその前後にある種の
断絶が認められる。しかしよく考えると、「現在」の姿は「過去」の姿の中に胚胎され
ているはずであり、完全な断絶はあり得ない。そう思う私が、過去の人を身近かに感ず
るのを好むのは、自然なことかも知れないのである。
                     -4-
(了)