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  巽 健一   横浜市在住、
          金城学院大学 元教授(社会学)

      随筆 「わが港南台の“かくれ里”」
作成 2017年05月31日
登録 2017年10月08日

 
  先日、 随筆家として知られる白洲正子 (故人) を取り上げたテレビのドキュメン夕リ一番組を見た。 彼女は、 敗戦直後の日本の再建に当たって当時の首相・吉田茂を補佐した実業家・白洲次郎の妻であり、明治時代に活躍した薩摩出身の陸軍大将・樺山忠資( かばやま ・ただすけ) の孫娘である。 この夫妻が戦時中に東京から移り住んで終生暮らした屋敷"武相荘" (ぶあいそう)は、束京の都心部の遙か西方、武蔵国と相模国の境界付近 (現在の行政区分では神奈川県と境を接する東京都町田市) にあり、 次郎がこの地名、 「武」と「相」に自身の無愛想(ぶあいそう)な性格を引っ掛けて命名したものである。

 実は3週間ぐらい前、私は横浜市港南区港南台の自宅から電車を乗り継いで1時間余りの場所(自宅から見て北東方向)にある、この武相荘を訪れていた。その日は、近くに住む大学時代の同級生4人で一緒に武相荘近くの牡丹園を見に行って、 その帰りに時間が余ったので立ち寄ったのだ。 この一行4名というのは、大阪大学文学部哲学科社会学専攻出身の3名(男2名、女1名)と、 うち1人の伴侶である国文学科出身の女性である。 もともと、私たちの学年で社会学専攻の同級生は4名しかいなかった。 そのうち3名が大阪を遠く離れた首都圏の西方付近に住むことになったのは、 まったくの偶然なのだが、私たちはその偶然を利用して時々こういう散策を楽しんでいるのである。

 この日訪れた武相荘は、 小田急沿線の鶴川駅近くの住宅地に近接して建っていた。 駅からバスに乗り、5~6分走ったところのバス停で降りて、住宅地の間の道を数分歩くと、その屋數の前に出た。屋數は今は見学用の展示館になっていて、門を入ると、そこには門外の住宅地とはまったく相貌を異にする"昭和初期の世界"があった。門の北側に位置する屋數には、緩やかな斜面を登って辿り着く。 邸内の面積はかなり広く、屋敷の背後には樹木の茂る小山があった。 その中腹に山小屋風の建物があり、小屋の外にその林間から切り出したらしい薪の束が大量に積み上がっていて、 昭和の昔を思い出すような風景である。 後で聞くと、 その小屋には現在この展示館の管理責任者が住んでいるとのことで、ますます昭和の息吹を感じた。おそらくその小屋には、冬の間使用する暖炉があって、大量の薪はそこで用いられるのであろう。 そしてそこに住む人は、 白洲夫妻が生前営んだ田園生活を今なお実践する、という意識で暮らしているのだろう。

 このようなかなりの広さの敷地内で、 肝心の屋敷はそれほど大きいものではなかった。 中に入ると和室が五つか六つあり、 机や椅子や調度品など、 当時の佇まいをその儘残しながら、 壁面などに見学者用の解説や次郎や正子の書簡などが展示してあった。 この屋敷を手に入れた夫妻は1940(昭和15)年に入居したのだが、屋敷は当時の普通の農家だったということである。だから、あまり大きくはないのである。正子が執筆に使用した座り机がその儘残してあったが、さして大きなものではなく、壁面の書架に彼女が用いた書籍が並べてあったが、 意外に少なかった。 ほかにも多くの書籍があって、 他の場所に保管されているのかも知れない。 ともあれ、 彼女の多くの著作がこのような質素な環境で生み出されたことは驚きであった。 昨今の雑誌のグラビア頁に紹介される著名作家たちの立派な書斎などとは、 あまりにも異なるからである。

 展示品の中で私が興味を持ったのは、 次郎が友人の作家・今日出海に当てた手紙だった。 それは、次郎がこの屋敷を買った昭和15年頃の手紙で、 そこには次のような主旨の言葉が綴られていた。 「昨今の日米関係は、 世間の人々が考えているよりも深刻である。 日本は必ず対米開戦に踏み切るだろう。そして、敗戦の経験がない日本は徹底的に抗戦し、 日本の国土は米軍の空爆によって焼け野原になるだろう。私はそういうことも考えて、住居を移すことにした」。私はこれを読んで、大学留学以後の長年の英国滞在によって外から日本を見る目を養っていた次郎らしい手紙だと、感心した (日本の高級軍人たちがこのような眼力を持っていたら日米開戦は回避できたかも?)。彼はこの手紙で、 目本が陥りつつある危機を友人の今に知らせようとしたのかも知れない。

 こうして武相荘に住み着いた白洲夫妻は戦時中、都心部に住む友人たちをしはしばここに招いたという。当時は周囲に住宅地などなく、まったくの純農村だったろうし、白洲家でも多少の耕作を行っていただろうから、 食糧不足に悩む都会住まいの人々はこの招待を喜んだようである。夫妻はこの田舎暮らしが気に入り、戦後も都心部に戻ろうとせず、 この質素な屋敷で暮らしたという。

 この屋敷の端っこの少し大き目の部屋が、現在レストランに改装されていて、昼食や夕食、 そしてその合間には喫茶のサービスが受けられるようになっている。 そのことを知った私たちはそこでお茶を飲みたかったのだが、 その時点でちょうど午後4時を少し過ぎており、 5時からの夕食の準備で忙しいため、 4時で喫茶は終了とのことだった。 それを聞いた私は、せっかく武相荘で優雅なティー・夕イムを楽しんで語り草にしようと思ったのが不可能になって落胆したのだが、止むを得えない。 感心したのは、 ふつう展示館の類は夜間は閉鎖されるのに、 決して足場がよくない武相荘が夜間も開館しているということだ。 しかも繁華街とは程遠い場所で、 レストランの平日夜間営業が成り立つのには驚いた。 もしかすると、知る人ぞ知る穴場なのかも知れない。

 こうしてティー・夕イムを諦めた私たちは、見学を終えて屋數の外へ出た。すると屋敷のすぐ外に、小さな小舎があった。入って見ると、 中はバ一仕立てになっていて、 カウンターに"Gentleman Only"という琺瑯引きの看板があった。滞英生活の長かった次郎が、当時「女性禁止」のバー(主として会員制バー)が多かったイギリスを偲んで、 ユーモア精神を発揮してこの看板を掲げたのであろう。 このバーは来客接待用に用いられたと思うのだが、 来客の中に女性が混じっていても、 もちろん排除はしなかったはずである。 したがって、いまフェミニストの女性がこれを見ても、柳眉を逆立てる 必要はないのである。

 小舎を出て屋敷の南側正面に広がる開放的な庭に立ち、改めてその外観を眺めると、屋敷の内部が質素な感じだったのに比して、茅葺きの屋根は手入れが行き届き、立派な様子だった。 こうして私たち一行の武相荘見学は終了し、夕暮れの中を帰途に就いた。

 以上、最近の自己体験に紙幅を割きすぎたが、 ここで本題に戻ることとする。私が昨日見たテレビ番組では、白州正子が著書『かくれ里』 で取り上げた場所を紹介していた。 実は、私は白洲夫妻の足跡には関心があるが、正子のレパートリーである「和装」 「社寺」 「仏像」 「四国遍路」 などの文化現象には関心がない。 その私が偶然目を留めた正子のドキュメン夕リ一番組を最後まで見ることになったのは、 この番組のテーマが"かくれ里"だったからだ。
 番組では、 この著書の中で正子が"かくれ里" について述べた言葉を紹介している。 私はその言葉を正確に覚えてはいないが、 その主旨は次のようなものだった。 「私は人里離れた秘境には余り興味がない。 それよりも、 人々が暮らしている普通の場所の直ぐ近くに人知れず隠れるようにして存在する意想外な空間に興味がある。私はそれを"かくれ里"と呼んでいる」。実は私も、この彼女と関心を同じくしているのである。もちろん秘境にも関心がないわけではないが、 それはテレビや書物で覗き見る程度であって、自ら探訪するだけの情熱はない。 しかし彼女の言うかくれ里なら、 日常の行動範囲の中で、 たとえば私が健康目的で行っている自宅周辺のウォーキングの途中でも、 偶然そのような場所を発見することがあり、 そのつど興味深く感じていたのである。

 現在私が住んでいる港南台は、 横浜市の中心部から遥か西方の鎌倉市との境に近い丘陵地帯である。 この地域は、 40数年前まで純農村で電車の路線もない所だった。 ところが、 起伏の激しい地形が米作に適していないため、 高度経済成長に起因する都市近郊の住宅需要の拡大に乗じて宅地開発を図った結果、国鉄(現・ J R)の根岸線が延伸して港南台駅が新設され、 畑地や森林の跡に多数の住宅が建設され、 流入人ロの増加に対応して駅周辺には銀行の支店(三菱UF J、三井住友、横浜、住友信託)、郵便局、百貨店(高島屋)、スーパー(相鉄ローゼン、ダイエー)のほか、シネコン形式の映画館やカルチャー・セン夕一まで出現するに至った。

 このような地域特性ゆえに、新興住宅地のすく裏に古い農村の風景があったり、丘の上の森林地帯や原野に隣接して平地から見えない広大な新興住宅群 (現代版かくれ里?) が突如現れたりして、 ウォーキングの途中で驚くことがしばしばである。 そしてこの番組を見終わった時、 それらの中に、 いかにも典型的なかくれ里といえる場所がわが家から僅か徒歩20分余りの所にあることを、思い出した。そこで、 いわゆる "落人部落"の面影すらあるそのかくれ里を紹介してみようと思う。

 私がそのかくれ里に出逢ったのは、 昨年1 0月末の薄曇りの土曜日だった。 私の住所は、前記のとおり横浜市港南区港南台2丁目である。港南台は1丁目から9丁目まであるのだが、このうち1~3丁目に住む60 0世帯が宮谷(みやがや)町内会を結成している。 町内会への加入は任意だから、 住民の移動が多い集合住宅の世帯は非加入が多いのだが、 町内会は区役所の援助を受ける一種の自治組織 (ゴミ収集対応や街灯の管理などを担当) という性格があるため、一戸建ての世帯の大部分が加入している。 その宮谷町内会がこの日「健康ウォーキング一野庭・里山めくり」を催したので、私も参加したのである。 港南台は J R港南台駅を中心としてその周辺に展開する地域だが、 宮内町内会がある1~3丁目は駅の北側を占めていて、私の家は駅から徒歩7~8分のところである。 ウォーキングの目的地である野庭(のば) は、 さらにそこから北西に向かう地域で、駅やその付近の賑やかな場所から遠く離れている。 それまで港南区や隣接する栄区、 磯子区などの丘陵地帯のウォーキングを試みていた私も、 こんな近くにウォーキングに適した里山があることを知らなかったので、 勇躍参加したのだ。

 その日午前9時半に、 集合場所として指定されていた、 自宅近くの宮谷町内会館に行くと、20名余りの参加者男女が集まっていた。予想どおり、高齢者が多かった。町内会長が引率するこの一行には、港南台地区セン夕一の若い女性職員がガイド役として付き添うという厚遇ぶりだった (町内会が区役所と連携しているゆえか) 。

 私たちの一行は旗を持った先導者に連れられて、 バスが往来している近くの鎌倉街道を横切って、街道の向こうの高地を目指して斜面を登り始めた。斜面には、住宅のほかにゴルフの打ちっぱなし練習場や造園業者の建物などが点在し、 その間を縫ってジグザグ状に道路が続いていた。 その道を辿って、 時々いま自分たちが通過して来た下方の風景を眺めながら、 頂上に辿り着いた。

 そこから山道を辿ること数分で、大きなトンネルに遭遇した。ガイドの説明によると、このトンネルは「迎陽隆道」 (げいようついどう)と呼ばれている。昔はこの高地(野庭)と下方の平地(港南台ほか)を直線で結ぶ通路がなく、野庭から港南台方面に行くためには大きく迂回するしかなかったという。そこで明治41年に、付近の住民と当時近くで操業していた炭鉱業者が協力して、手掘りでトンネルをつくって利用していた。 それが、昭和53年に行政の手で改修され、本格的なトンネルになったのだ。一行の中に、 若いころ野庭に住んでいた高齢の女性がいたのだが、 彼女が小学生時代に平地側にある学校へ通うためにこのトンネルを利用した時には、まだ改修前だったので、小さくて天并が低く暗いトンネルだったという。

 トンネルを抜けると、道が左右に分かれていた。私たちは左の道を取ったのだが、それはこの高地の中でもより高く、 左右に小高い山を抱えた山峡の道だった。右の道はなだらかに下り気味になっていて、 平坦な広い地域に通じているようだった。 後に知つたのだが、 この広域の土地は40年くらい前に造成された 「市営野庭住宅」 という集合住宅を中心に一大住宅区域となっていて、 道路が整備され、港南台やその他のターミナルへ通じるバスが通っている。 したがって、 きわめて開放的な風景が展開しているのだが、それだけに興趣に乏しい。一方、私たちが赴いた山峡は、何とはなしに陰りがあり、 まさにかくれ里というのに相応しく、初めて訪れる私の興味を掻き立てた。 (なだらかに下方に展開する平坦地域が「下野庭」、山峡をふくむ高所の地域が「上野庭」、と呼ばれている。)

 山峡の中を貫通している道は、 車は通れるが、 バスが通るだけの広さはない。 第一、道の左右に人家があるにせよ、 まばらに点在するだけなので、 バスとは縁がない。 山峡に入って間もなく、道の左側に何軒かの家が連なっているのが見えた。すると、横を歩いていた町内会長が私に 「この家は戦国時代に豊臣秀吉に滅ぼされた小田原の北条氏の重臣がここに逃げのびた、その末裔ですよ」 と言つたので、驚いた。その家の表札には「臼居」とあった。そして、次の家もその次の家も、臼居だった。私は咄嗟に、彼らは鎌倉街道を通ってこの山峡に逃げ込んだのだろう、 と思った。 たしかに、 この山峡は落武者が隠れ住むには通した場所だといえる。

  一連の臼居家の家並みはいずれも、 広い庭がある古びた和風の住居で、 それが途絶えたところに、左に折れる細い脇道があった。よく見ると、その脇道の向こう側にもう一 軒、 「臼居」 という表札のある家があり、門のところに「ピアノ塾」 という木札が掛けてあって、その家だけは小さな洋館だった。 トンネルを抜けてその地点まで10分足らずの距離だったが、そこに到るまで、この山峡は左右に山が迫って薄暗い雰囲気だった。 ところが、 この地点から道筋が右折し、 その道の左側だけ道路と山肌の間隔が急に広がって、視界が明るくなった。道路と左側の山肌の間には、少しだけ畑地があるものの、ほとんど荒地のまま放置されていた。おそらく、山肌が迫る地形ゆえ、 日照が少なく湿気が多過ぎるなど、 耕作に不適な土地なのだろう。

 この荒地を左に見ながら進むこと5~6分で、右側に「浄念寺」 という、人家乏しく寂れたこの山峡には分不相応な立派なお寺があった。 ガイドの説明を聞き逃したのだが、この寺の創建はかなり古く、境内には伝説(詳細略)として伝えられている「咳止め玄入坊」 という借侶の祠や、大きな力石があった。 また、近隣の人々が集会所として利用できるような部屋もあるようだった。 私たちはこの境内を見学した後、 さらに歩を進めた。すると、浄念寺に隣接するようにして、同じく道の右側に野庭神社(別名:御嶽社) があった。 しかしこの神社はかなり高い階段を登ったところにあり、 高齢者の多い一行はこの神社を訪れることなく、 そこから元来た道を引き返した。 引き返す前に野庭神社の少し先を見ると、神社と同じ道の右側に7~8軒の家並みがあり、道の左側にも3~4軒fの人家があった。 山峡はこの辺りで終わり、 その先はかなり広くなっている。 だとすると、山峡の人家は最初に見た臼居姓の数軒から数えて、せいぜい20軒f余りということになる。

 歩きながら考えたのは、 このような辺鄙な山峡になぜ立派な寺や神社があるのか、 ということである。その時私は、 これらの寺社を維持しているのは、山峡をふくむ上野庭の住民だけではなく、下野庭に住む人々も加わっているのだろう、と考えた。そして、この地域の中心としての寺社が辺部な山峡にあるのは、 そこに臼居氏の存在があるからではないかと、想像を逞しくした。

 帰路私たちは、臼居家の家並みに差し掛かったところで、 例の脇道に入って狭隘な畑地の間を縫って歩いた。 すると畑地の一角に、 武蔵と相模の国境を示す標柱が立っているのが目についた。 今考えると、 この標柱は白洲夫妻の武相荘から境界ラインを南西に延長した線上にある、 ということになる。平地の港南台は武蔵国に、高地の野庭は相模国に、 それぞれ属している。

 その後、私たちは往路で通ったトンネルを通らず、 トンネルを大きく西側に逸れて平地に降り、 11時半頃に宮谷町内会館に戻った。そこで町内会が用意してくれた弁当とお茶を受け取り、 館内の会議室で昼食を摂って解散した。 その後私は、 自宅がある新興住宅地のすぐ近くに古い歴史を抱いた里山があることに、大いなる関心を抱き、臼居家の周辺をもっと探索したいと思い、 また山峡とその周辺の地域との関係を知りたいと思った。 そこで、 当時私が一人で習慣的に行っていたウォーキングの対象としてこの里山を何度か訪れようと思い、実行した。

 まず最初に私は、 町内会ウォーキングと同じ経路を辿って臼居家周辺を観察した。 前回は何気なく通過してしまったのだが、改めて数えてみると、臼居という表札の和風住宅が4軒並んでいた。 それぞれかなり大きな敷地で、 住居はいずれも古びていたが大きかった。 中には開け放した門の内側の広い庭に乗用車が置いてあり、 戦国武将だったご先祖の馬が今ではその末裔のクルマに置き代わったのだと、 当たり前の事態を今更のように心に留めるのだった。 臼居家の並びの中程にある家の塀に目本共産党のポスターが貼ってあり、このことにも時代の変遷を感じたりした。前記のとおり、臼居家が建ち並ぶのは、 左右に山が迫ってこの山峡の中でも最も薄暗く陰湿な印象を受ける場所である。 住居が古びて見えるのは、 私の中に落武者の屋敷という先入観があるからではなく、 湿気が多くて劣化が激しいからではないか、 と思ったりした。

 この場所で、 前回私がよく見ずに通りすぎた個所が一つあった。 それは、 臼居家の家並みの中程の反対側、 すなわちトンネルから見て道の右側にある梨園である。 最初そこを通過した時、 私はその存在に気づいてはいたのだが、 ウォーキングの一行が立ち止まることなく通り過ぎたので、よく見ることができなかったのだ。改めて見直すと、山が道に迫っているこの場所にしては例外的に山肌と道路との間隔が広く、 門の向こうに広く明るい空間があり、 その先にある山の斜面に梨の木らしい樹木が植わっていた。 門を入った左側にはかなり大きな和風住居があり、 右手には作業所らしい建物や倉庫があった。そして門のところに、 「〇〇梨園」 という表札とともに、カフェの標示があったので驚いた。 そういえば、住居の庭先に椅子やテーブルが見えたので、そこがカフェなのだろうと思った。 簡単なメニューの標示もあって、 食事と喫茶の内容が示されていたが、営業日時が限られていた。

 私は好奇心から、 この人通りのない辺鄙な山峡に、 しかも選りに選って落武者屋數の目の前にあるカフェなるものを体験してみたかった。 しかし私がウォーキングに出掛けるのはいつも午前中で、 12時か13時には帰宅することにしているので、週に4日程度の営業日の12時以後という営業時間にはマッチしなかった。 そこで、 カフェ訪問はいずれ折りを見て、 ということにして先を急いだ。

 次に立ち止まったのは、前回訪間した浄念寺の先にある野庭神社である。 ただし前回同様、 急な階段を登つての社殿訪問は敬違し、 前回よく見なかった階段前の木札の解説を読んだ。そこには、この神社が1570年に臼居氏によって建立された、と書いてあった。私はそれを読んで、前回訪問時に町内会長の簡単な説明を聞いて抱いていた臼居氏の落武者イメージを改める必要を感じたのである。なぜなら、北条氏の本拠である小田原城の落城は1590年前後のことであるが、すでにその20年前に臼居氏がこの地に住んでいたとすると、 彼らは落城に際して闇雲にこの場所に逃げ込んだのではなく、もともとこの地から小田原城に出仕していて、落城に際して元の故郷へ戻った、 と解すべきだからだ。 しかも小田原落城は、 当主の北条氏真の高野山への追放、 氏真の父で反豊臣強硬派の氏政の切腹、関東における北条領の没収と狭山(現・大阪狭山市)への移封を条件とした、 平和的な城明け渡しだったから、 臼居氏は逃げ帰ったというより、 秩序整然と元の野庭に帰還したのだろう。

 こう考えると、臼居氏の出自として次の二つのケースが考えられる。第一は、臼居氏が北条氏(早雲が創設したいわゆる 「後北条氏」 ) の勃興以前からこの地に盤踞していた豪族であって、 北条氏勃興後に北条の家臣となって小田原城に出仕していた、 というケースである。そして第二は、 もともと臼居氏はこの地の出身ではなく、相模を中心として関東一円を支配した北条氏の家臣であって、 この地の統治を任されて比較的近時点に(1500年代に入つてから)この地に住み着き、豊臣の北条攻めに際して参陣して小田原城に入つていた、 というケースである。

 そんなことを考えながら、 私は野庭神社を通り過ぎてその先に向かった。 その先には、
前記のとおり道の左右に何軒かの人家があり、その道が次第に下り坂になり、坂を降り切った辺りで山峡が終わり、 その地点から道がいくつかに分岐していて、右へ行く道は山裾をまわるようにして下野庭の大規模住宅地に通じていた。私はそれを確認して、元来た道を戻って行った。

 その後、 私はこの地の探索に当たって、 自宅近くのバス停からバスに乗って下野庭の大規模住宅地付近で降り、 そこから上野庭に通じるいくつかの道を探ることを何度か繰り返した。 そしてその佇まいから、 私はそれらの道が最近の下野庭の人口増大に対応して造成されたものではなく、古くから野庭の「上」と「下」を繋いでいた歩道(田舎道) だと判断した。

 そうこうするうちに、私の関心は下野庭の中でも、山峡の北西方面に展開する 「野庭農業専用地区」 に移って行った。 この地区は、 左右の緩やかな丘陵に挟まれているのだが、山峡とちがって、広々とした畑地が広がり、近くに馬洗い川(名前の由来を聞いてはいないが容易に想像がつく) の源流があって水利にも恵まれている。 どうやらこの専用地区は、 野庭の農業協同組合が管理していて組合員の農家に生産を委託しているようだった。

 昨年1 2月中頃の小春日和の暖かい日に、 私はこの専用地域を歩いていて、 作業中の中老男性に出逢った。 彼は綺麗に並んだ何列もの畝の一つにしゃがみ込んで、 畦道に置いた苗箱から苗を取り出して、畝を覆っているビニール-シートの所々に開いた穴の中にそれを植え込んでいた。 とても根気の要る作業である。 「何を植えているのですか?」と訊ねると、豌豆だと言う。 「では、収穫まで半年近くかかりますね」と言うと、そうだと言う。

 そこを離れて更に進むと、 「花の直売所」 という大きな看板に出くわした。 「こんな辺鄙なところで花を売るなんて」 と訝しく思いながら歩いて行くと、その直売所に辿り着いた。 直売所は畑地の南側の緩やかな丘の裾にあり、近づくと予想外に大規模なので驚いた。 そこには大きな温室がいくつもあり、 そこで花を育てているようだった。 そして入り口には、乗用車やトラックが何台か停めてあった。つまり、 ここに花を買いに来るのは個々の消費者ではなく、業者(花屋さん)が大量に仕入れるために来訪するのだ。 たしかに個人客がこんな辺鄙な里山まで花を買いに来るはずはない。 そうと気づいた私は、 もともと花に関心があるわけでもないので、中に入ることなく早々に退散した。 この日は、専用地区を通り抜けて南西に向かい、野庭に隣接する小山台(おやまだい)という地域(住宅地) に出て、 そこは港南台からかなり離れているので、 バスを乗り継いで帰宅した。
 
 その後も何度か野庭を探索した私は、 そろそろウォーキングの対象を他の地域に変更しようと思い、年を越した今年1月中頃の暖かい日を最後に当分野庭行きを止めようと思いながら、例の山峡を訪れた。 その日は例の梨園が営業している日だったので、私は最後にそこのカフェを体験しておきたかった。 そこでカフェがオープンする12時まで付近を歩きまわり、 12時ジャストに梨園の中に入った。門を入ると若い男性がいたので、 カフェのことを訊くと、 やはり以前見当をつけたとおり、 住居の外に配置された椅子とテーブルがカフェなのだが、 家の中でも飲食できる部屋があると言った。 私はついでに梨園のことを訊いたのだが、彼は背後の斜面を見ながら 「今は梨の木の数を減らしたので、 収穫は少なくなりました」 と言った。 それでも市場への出荷やこの場所での直売はやっているようだったが、採算が取れるほどではなさそうだった。 どうやら彼自身も門を入ったところの作業所で何か仕事の準備をしていたようで、 それが造園業なのか土木工事業なのか分からなかったが、 今ではそれがこの家の主たる生計の方途になっているようだった。

 私が野外カフェの椅子に座ると、青年が家に入って中年の女性を呼び出してくれた。 爽やかな感じのその女性がこのカフェの主のようで、 メニューを差し出した。 昼時だったが、 昼食は自宅でと考えていたので、 紅茶を頼んだ。 出て来た紅茶は香料入りの高級茶葉らしかったので訊いてみると、 アールグレーだという。実は、私は香料入りの紅茶を長年敬違して来た。 香料が紅茶の味や香りを薄めるような気がして、 濃い紅茶が好きな私には合わないと思ったからだ。 しかしこの時は、 アールグレーを結構旨いと思った。 私の嗜好が変化したのか、 それとも 「陰鬱で狭小な山峡の中でそこだけは広いゆったりした明るい空間に、周囲とは異質な洋風のカフェという独特の雰囲気」が私の嗜好を幻惑したのだろうか? それはともかく、それ以来私は家でも家内が飲むァールグレーを時々失敬して飲むようになった。

 私が寛いで紅茶を飲んでいると、 突然若い夫婦が2人の子供を連れて賑やかに門の中に入って来たので、驚いた。 この山峡の中で、人に出合うことはまずなかったからである。彼らは私の隣の隣の席に陣取り、 出迎えたカフェの主とは知り合いらしく親しく談笑していた。 少したって私のテープルの側を通りがかった女主人に訊いたところ、 彼らは予約客でこれまでに何度か来店しているという。 私はこんな辺鄙なところにどうしてそういう客が来るのかという、 いささか失礼な質問をした。 すると、彼女の回答は次のようなものだった。 「私は料理が趣味だったので、 こんな店を開いてみました。 すると、お客の中に私の料理をネットに投稿してくれた人がいて、 それから私の料理が話題になり、来店客が增えました。それで私も自分の料理を投稿したりしているうちに、テレビ(神奈川テレビ?)やコミュニティ・ぺーパーで取り上げられたりして、この店が知られるようになりました」。

 私はそれを聴いて、成る程と思った。いま来た4人連れは、車を門内に乗り入れるでもなく、徒歩でトンネルを通って来たようだった。小さな子供を連れてこんな所まで足を運ぶには、 それだけの理由があるのだ。 私は何となく明るい気分になって、 この梨園を後にした。それ以後この山峡に足を踏み入れることはないが、最初感じた"落人部落"(どうやら誤解なのだが)の暗いイメージが、最後に梨園の明るいイメージで払拭されたのは、 "めでたしめでたし"である。

 さてそれから約4カ月たち、 本稿を書くに当たって先日浄念寺に電話して、私が調べていなかった同寺の創建時期と創建者を訊いてみた。すると、 1564年に臼居杢衛門が創建したということだった。 その末裔の臼居家は、第二次大戦後の農地解放で土地を失うまで、 野庭から遙か北西の戸塚 (今では J R東海:道線戸塚駅がある) まで他人の土地を踏まずに到達できるほどの大地主だった、 とのことである。 それを知った私は、 この地における臼居家の存在の大きさを感じ、 同家が単なる落武者の末裔だと伝えられているのはまちがいだと、 改めて思った。 また同家は昔から、 現在の野庭専用農業地区をふくむ上野庭の農地や、現在大規模住宅群に姿を変えた下野庭の農地はもとより、北西に広がる戸塚の農地までを領有していたのだ、と想像をふくらませた。
  
 こういった事実を知った私は、 臼居氏についてもっと訊いておくべきだったのだが、次のようなことを訊きそびれてしまった。
* 臼居氏はいっから野庭の地に住み着いたのか?
* 臼居氏と主君・北条氏の関係は?
* 現在浄念寺の近くに住む何軒かの臼居家の中に、臼居杢右衛門の末裔が含まれて
いるのか?
* 含まれているとすれば、 古くから広大な土地を所有していた杢右衛門家がなぜこ
んな不便で陰気な山峡に居を定めたのか? 昔は他のより便利な土地に住んでいて
後にここに移住したのか?

 こういったことが分かれば、 私の関心を惹いた臼居氏の存在がより鮮明になるのだがその点が残念だった。 しかし、電話で応答してくれた住職の奥さんが最後に述べてくれた一言は参考になった。 それは、 「臼居氏はその以前は吉本氏と称していたという説もあります」 というものである。私はそれを聞いて、 臼居氏の出自に関する前記の二つの仮説(6頁の下から8行目参照)のうち、第一のケース(臼居氏は古くから野庭の豪族として自立した存在であって、後に北条家に仕えた)が正しそうだと思った。おそらくもともと吉本氏であったのが、北条家に仕えた時に臼居氏に改名したのだろう、 と思ったからである。 私は日本史に詳しくはないが、 新たな主君に仕えた時にその主君から新らしい姓を賜ることがあるのではないか、 と推察したのである。 もっとも、それには確たる証拠があるわけではなく、 私の勝手な想像に過ぎないが。

 以上が、最近自宅の近くで思いがけず発見した私の"かくれ里"の概要である。自宅住所が港南台なので、本稿のタイトルを『わが港南台の"かくれ里"』としたのだが、これは「自宅近く」を強調するためのタイトルである。実際は、かくれ里は港南台ではなく、隣接する野庭にある。また、煩瑣に渡るのでこれまで省略していたが、実は港南台と野庭の間にある鎌倉街道は 「日野」 という東西に細長い地域に属している。 これらの混み入った事情をすべて捨象したのが本稿のタイトルであることを、 ご了承いただきたい。

 本稿執筆の端緒となったのは、 白洲正子を取り上げたテレビ番組と、 関連する白洲家の"武相荘"の見学体験であるが、 ここで紹介した私のかくれ里が港南台の新興住宅地付近の 「中世の歴史」 を背負った場所であるのに対し、 武相荘も鶴川の新興住宅地のど真ん中にある 「昭和の歴史」 を背負ったかくれ里であることに、本稿を閉じる今になって気づいた次第である。

〔#〕 最後に稚拙な手書きの地形図を掲載した。 拙い文章ゆえ、 かく れ里周辺の地形が
分かりづらいと思い、 それを補うために書いた。 ただし、地図とはほど違い概念図
に過ぎないものである。