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  巽 健一   横浜市在住、
          金城学院大学 元教授(社会学)

      随筆 「北帰行」
作成 2016年2月19日
登録 2016年7月10日


  今日、夕方のテレビのニュース番組で、季節の移り変わりを伝えていた女性アナウン
サーが、渡り鳥が北へ帰って行く様子を指して、「渡り鳥の北帰行です」と言うのを聞
いて驚いた。私の頭にある“北帰行”は歌のタイトルであって、それがいつの間にか「
北へ帰ること」という普通名詞として用いられていることに驚いたのだ。このタイトル
がどういう経過を辿って、この若い女子アナによって普通名詞として用いられるように
なったのだろうか。
  そもそも‘北帰行”は、1943~44(昭和18~19)年頃に、当時満州(現・中国東北部)
の旅順市にあった旧制・旅順高等学校の学生だった宇田博氏が作詩・作曲した歌なのだ。
この歌が生まれた後、様々な伝わり方をしたために、曲はともかくとして、歌詞の方は
何通りもあるという状況になっている。その中のどれが正しいのかは、もはや故人と
なった宇田氏にしか分からない。私が記憶している歌詞は、次のとおりである。

(1)窓は夜露に濡れて
  都すでに遠のく
  北へ帰る旅人ひとり
  涙流れて止まず
(2)夢は空しく消えて
  今宵闇をさすらう
  遠き想い儚き望み
  恩愛われを去りぬ
(3)今は黙して行かん
  何をまた語るべき
  さらば友よ愛しき人よ
  明日はいずこの街か

  この歌詞と曲を合わせて考えると、旧制高校生である宇田青年が作っただけあって、
何となく旧制高校の寮歌らしいムードが漂っている(寮歌ではないが)。寮歌には二つ
のタイプがある。一つは、旧制高校が存在した時代、すなわち大日本帝国時代を象徴す
るような対外的進出すら匂わせるような勇壮な寮歌(たとえば一高の“ああ玉杯に花受
けて”)であり、もう一つは若き日の憂愁をふくむ人生の哀歓を語る寮歌(たとえば山
形高の“愁いに沈む吾が友よ”)である。北帰行の歌詞には「涙流れ」「夢は消え」「
儚き望み」「恩愛去りぬ」「愛しき人よ」などのフレーズがあって、明らかに後者のタ
イプに類似している。しかし、この歌は旅順高校を歌ったものではなくて、旅順高校在
学中の宇田青年を襲った運命を自ら歌ったものなのである。
  戦後10年余をへた昭和30年代の半ば頃から、私はラジオなどで時々この北帰行を
聴く機会があり、なかなか風情のある歌だと思ったが、歌詞の意味などは一切知らなか
った。そしてその後何年もたってから(昭和40~50年代?)、この歌の作者で当時
東京放送(TBS)の編成局長だった宇田氏(後に役員に就任)がこの歌の由来を語っ
た文章を読んだ。それは、旧制高校のOBたちの高校生括回顧談を集めた単行本に収録
されたものである。それによって私が知った歌の由来は、次のようなものだった。
  宇田氏の父は当時の奉天市(現・藩陽市)にあった満州建国大学の教授だったので、
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彼は奉天に住んでいたのだが、旅順高校に入学したため、内陸部の奉天から南方の渤海
湾沿いの旅順に移って高校の寮住まいをしていた。彼は良くいえば活発な、悪くいえば
少し乱暴なところのある、青年だったらしい。当時旅順に駐屯していた日本陸軍騎兵連
隊の将校の中に知人がいて、彼は時折その知人の馬を借りて隊内で乗馬の練習をしてい
たようである。ところがある時、彼は学校の授業をサボッて知人の馬を借り出し、あろ
うことか旅順高校の校庭に騎馬で乗り込んで示威行動を行った。このことが、当然なが
ら校内で大問題になり、遂に彼は放校となり、止むを得ず奉天の自宅に帰ることになっ
た。そこで、自業自得とはいえ傷心を抱いた彼が旅順を去り、北方の奉天目指して帰路
に就く心境を歌ったのが、この歌だったのだ。
  そうだとすると前記の第1節は、旅順で汽車に乗り込み、涙で曇る目で車窓から夜の
街に別れを告げる情景を歌ったもの、と解される。また第2節は、放校が決定した後に、
前途を失った彼が失意の余り夜の巷を彷徨した苦渋の日々を、旅順を去るに当たって回
想する様子を歌ったものであろう。そして第3節は、旅順での一切の思い出を、そして
学友や恋人との絆を、すべて断ち切って北へ帰る心境を表している。(第3節で暗示さ
れた恋人が、実在の人物か架空の人物なのかは分からない。)
  こうして見るとこの歌詞は、手記に記された彼の当時の心境をよく表現したなかなか
の傑作だと思う。そして、憂愁の中に、いかにも当時の旧制高校生らしい気負いが秘め
られていて、彼個人の心境歌の域を超えて、ある種の普遍性を帯びた学生歌としての一
面が備わっていると思う。また曲もなかなかの出来ばえで、彼はかなりの音楽センスの
持主だったのであろう。
  この一件には後日談があり、宇田氏の手記はそれに触れている。彼は旅順高校を退学
した後、一高を受験し直して合格し、終戦前に家族と離れて内地・東京に赴いた。そし
て終戦後、一高を卒業して東大文学部に進学していた彼が下宿の二階にいる時に、外で
自分が作った北帰行の歌声が聞こえたので驚いて窓を開けると、白線帽にマント姿の一
高生が2~3人達れ立って歌いながら歩き去ったという。いっの間にこの歌が海を渡っ
て東京で歌われるようになったのか、ご本人もいぶかしく思った、というところで手記
は終わっている。
  この不思議な現象を、強いて解釈するとすれば、奉天でこの歌を作った宇田氏が、歌
詞と楽譜を旅順高校時代の友人に送り、それが彼らの間で流行って、終戦後内地に引き
揚げた彼らが、新たに入学した内地の高校で広めた、ということであろう。先に述べた
ように、この歌には旧制高校の寮歌にも通じる若人の哀歓が込められていて、所属高校
を問わず学生たちに好まれたものと思われる。
  こうして学生歌として普及し、ラジオなどで歌われるようになったとしても、その普
及範囲は限られている。北帰行がヒットしたのには、戦後10数年たった昭和30年代
後半(?)に、当時日活の若手花形俳優だった小林旭の主演映画『渡り鳥北へ帰る』の
主題歌として用いられたことが大きく寄与したのにちがいない。この映画の観客は学生
に限られない多くの大衆だし、歌手としても人気があった小林がテレビで何度も歌った
からである。映画を見ていないので何とも言えなのだが、この歌の歌詞も曲もそれが生
まれた時の宇田氏の心境や状況にピッタリなのだが、映画の主題歌としてはたぶんピッ
タリではなかったのではないだろうか。またキャラクターとしても、小林旭はこの歌に
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はピッタリではなかったのではないか。しかしそんな些細なことは、映画やテレビの歌
謡番組という大衆メディアの威力の前では問題にならない。
  ところで、北帰行という歌曲が日活映画やテレビの歌謡番組で用いられたことから、
著作権問題が浮上した。それまでもラジオ番組やその他のメディア(レコード、ソノシ
ートなど?)で用いられていたが、使用頻度が少なく、作詞者・作曲者が宇田氏だとい
う確認が取れていなかったこともあって、著作権は棚上げされていた。それが映画とテ
レビという巨大な商業メディアに登場するようになると、放っておく訳にも行かず、宇
田氏の著作権が認められることとなった。かくして、彼の青年時代の文学的・音楽的感
性に対する報奨が、歳月をへてもたらされることになったわけである。
  「北帰行」という言葉が、歌のタイトルという本来の意味を超えて、「北へ帰ること」
という普通名詞として用いられるまでに普及した、という私の驚きをもたらしたのは、
この日活映画の力にちがいないと思う。しかし、この映画も公開された時からすでに半
世紀を超えている。冒頭の放送シーンに登場した女子アナはおそらく、ここに述べた北
帰行の歌詞や由来を、またその作者が放送界の大先輩に当たる人物であることを、知ら
ないのではないか。また、私のような世代の人間なら誰でも知っている小林旭の日活映
画のことも、知らないのかも知れない。
  さて私には、この歌について若干ホロ苦い思い出がある。1980年代半ばの頃、私は
50歳の少し手前で、広告会社・電通の東京本社に勤務していた。その頃、私が大阪
大学文学部で社会学を学んでいた時の恩師・甲田和衛先生が定年退官されて上京し、放
送大学の副学長に就任されるということになった。そこで、当時東京に住んでいた阪大
社会学の卒業生が集まって、先生の歓迎会を行うことになり、その幹事を私が務めるこ
とになった。皆の中で私が一番先生にお世話になったからである。
  歓迎会の当日、20名近くの卒業生が集まった宴会がお開きになった時、先生を囲ん
で何か歌を歌おうという話になった。そこで幹事の私が先生にお好きな歌をお訊ねした
ところ、先生は「故郷(ふるさと)」と「北帰行」の二つを挙げられた。それを聞いた
私は、「故郷」はいかにも先生に相応しい歌だと思った。明治時代に小学唱歌として作
られたこの歌は、日本人が大好きな歌であるが、特に作詞者・高野辰之と同じく長野県
出身(先生は上田、高野氏は中野で、どちらも北信地区)の先生には感慨深い歌であろ
うし、上京して旧制・東京高校から東大文学部に進学し、後に日本の社会学界に足跡を
残すに至った先生は、「志を果して」というこの歌の歌詞のとおりの経過をたどってこ
の場に立っておられるのだから。
  一方「北帰行」には、多少の意外感を感じた。なぜなら、10代後半の宇田氏がこの
歌を作った頃、先生はすでに20代後半に達しておられ、こういう学生歌・青春歌に親
しみを感じておられたことが、意外だったからである。しかし後になって考えると、宇
田氏が旅順でこの歌を作った頃、先生は同じ大陸の奥地・モンゴルの「民族研究所」に
勤務され、後に日本の敗戦に際して大変な苦労の末に、戦時中に内地に戻った宇田氏よ
り少し遅れて帰還されたという体験があり、東大文学部の後輩・宇田氏が作った大陸生
まれのこの歌を愛惜しておられたとしても、不思議ではないのである。
  それはともかく、幹事だった私はまず全員が歌えそうな「故郷」の音頭を取り、皆で
歌い終えた。その時、私が直ぐに続いて「北帰行」の音頭を取って皆を合唱に誘い込め
ばよかったのだが、一瞬間を置いてしまったので、何となく解散風(?)が吹いてしま
い、「北帰行」の方は歌わずに散会してしまった。その後テレビなどでこの歌を聴くた
びに、折角の機会に先生のお好きな歌を二曲続けて歌わなかったことに、微かな悔いと
申し訳け無さを感じるのである。そして、この宴の9年後に先生は他界された。
  なお、本稿を書くきっかけとなったテレビ番組を流した放送局は、北帰行の作者・宇
田博氏がかつて勤務したTBSである。
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