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佐々木雄太 小説『閉ざされたる冬』 
           
          2017.09.23登録
          2018.04.08更新
 千葉市在住

       第一章

 

 南条洋子が、東京羽田空港から新千歳空港へと到着したのは、真昼時であった。一時間半のフライトを終え、鉛のような重い体を引きずり、赤いトランクを空港のカフェラウンジまで運び込むと、やっと一息吐くことが出来た。「私はまた来てしまった」洋子は、砂糖の入り過ぎたカフェオレを飲みながら、そう呟いた。「いまいましい地、札幌。なぜ母親のためにそこまでしなければならないのだろう」洋子の眉間に皺が寄った。白いダッフルコートを着込んだ若い女が、洋子の方をちらと見た。洋子は、一瞬に気を取り直すと、セルフサービス式のカップをカウンターに返し、空港を後にした。

 空港の出口に、洋子の父の南条康司が周辺を見回しながら立っていた。洋子の背の高い姿を認めると、康司は右手を挙げた。「よく来てくれた。内地からここまでは疲れただろう」と康司が言う。

「ええ、本当に疲れたわ」と、洋子がトランクを引きながら、あからさまに嫌味を言った。

「本当に来てくれて嬉しい。その様子だと仕事も上手く行っているようだね。きっとお母さんも……。」と康司が言った。

「やめて、行きましょう」と洋子が言った。康司はしばらく黙り、すぐに「すぐそこのパーキングに車は止めてあるから。もう少し我慢してくれ」と言った。

 空港を出て、遠く東京から離れた北海道の景色を眺めると、大きく街の印象も変化したことに洋子は気づいた。記憶の中の北海道は、このようではなかった。しかし、叩きつける冷気の感触は、洋子の青春時代を過ごした土地の空気にちがいなかった。

 有料コインパーキングに着くと、トランクに洋子の荷物を載せて、エンジンを暖め、康司は車をゆっくりと発車させた。

 冷たい空気が洋子の頬を掠めた。空港を抜け、札幌市街へと向けて車は動き出した。

「懐かしい風景ね。こういう景色とか全然変わっていない」

「そうだろう。洋子の家も変わっていないぞ……。全部元のまま、そのままにしてある」

洋子は車窓から流れる景色を見て、康司にぽつりぽつりと話しかけた。少し考え込み、饒舌になったか、と思い洋子は口をつぐんだ。康司も洋子の疲れた様子を気に止めると、黙々とハンドルを動かした。洋子はじっと、瞑目した。私は、来てしまった……。あの母。そう、あの母の血が確かに私の中に流れているのだ。疲れで半睡のまま、洋子はうとうととしていると、康司の声が聞こえた。気が付くと、洋子の確かに生まれ育った、南条邸に着いていた。

 つららが長く伸び固まっていた。洋子はしばらくその様子を見つめると、荷物を持って歩き出した。洋子が立ちすくんでいる様を見ると、康司が荷物を南条邸に代わりに運び出した。

「着いたぞ。洋子の家だ」

 康司がそう言い、荷物を大きなリビングルームに置くと、ストーブのスイッチを捻った。ぱちぱちとはぜる音がして、少しつ部屋の中が暖まり始めた。洋子は、リビングルームの年代物の椅子に腰掛けると、顔をテーブルの上に突っ伏した。知らずの内に、緊張の糸が切れ、疲労が洋子に押し寄せてきた。

「さっき、言おうと思ったのだけれど、洋子はお母さん、雅子によく似てきたね……。洋子は嫌だと思うかもしれないが、お母さんの、お仏壇には手を合わせておくれ。それ以上はお父さんは何も言わない。」

「苦しんだんでしょう。あの人は」と洋子が言った。

「ああ、膵臓癌だからな。もう十回忌なんだ。洋子も……、母さんを許してやっておくれ。」

 康司が、煙草に火をつけて煙をはき出すと、そう言った。洋子には、どこか康司の煙草の吸い方が義務的のように見えた。それは昔から変わらないことだった。洋子がしばらく頬杖を突いて、考え込むと、雅子の仏壇が置いてある二階へと向かった。振り返り際に、康司が堰を切ったように泣き出し始めるのが見えた。南条邸の窓ガラス越しに、雪が降っていた。早めに実家に来て良かった、と洋子は思った。二階の洋子の自室の隣が、雅子の部屋だった。洋子は静かに部屋を開けると、あまりに部屋が変わっていないことに驚いた。あの、神経質な程に几帳面で綺麗好きだった母。少しの着物と帯と、本だけを置いて、殆ど外出もすることなく、南条邸を歩いていた母、雅子の部屋そのままに違いなかった。洋子は部屋の中央に立つと、仏壇の雅子の遺影を見た。それは妙に笑顔を作ったような、洋子が少女時代に嫌った、母の姿そのままであった。洋子は正座をすると、雅子の遺影の前に、手を合わせた。日蓮宗のお経と、戒名が置かれていた。戒名は麗人を意味する名だった。

「母さん、貴女は私を苦しめましたね」と洋子は遺影の母に向かって呟いた。

「隆嗣さんの命も、あの時のことも決して忘れていません。あの昭和四十七年のことも決して、許しては……」

 洋子の心の中の脈動がふと止まり、激しい動悸を覚えた。一瞬、洋子は胸を押さえて、下の康司を呼び寄せようと思った。しばらく息を整えると、動悸が収まった。洋子は、ケースに入った小さな安定剤を一つ口に含むと、つばきで流し込んだ。雅子の遺影の横には、古いラジオが一つ置いてあった。洋子は、手を伸ばすと、スイッチを捻り、ラジオ局をNHK放送局に合わせようとしたが、何も動くことがなかった。窓の外の、雪の量は少しずつ激しさを増していた。洋子は、遺影の中の母と古いラジオを眺めて、心の中の揺れが収まるまで、三宅隆嗣と出会った、昭和四十六年の冬の日のことを思い出し始めていた。

 

       第二章

 

 南条邸の窓ガラス越しに、雪が光っている。階段の踊り場の小窓から、庭に一面白い粉を敷き詰めたように、冷え切った粉雪が降り積もっていた。南条洋子は、小さく小窓を開けると、一斉に雪が室内に入り込み、床に幾つか粉雪が積もり、端の方から、静かに雪の欠片が溶けていくのを目にしたのだった。洋子は床に手を伸ばすと、指先に十二月の初めの冬の冷気を感じた。

「また、下らないことをしている。洋子さん、貴女は、後でしっかり雑巾で床を拭いておいて下さいね」

 洋子の母の雅子がいつの間にか、洋子の後ろに立っていた。雅子が上品な指先で小窓を閉めると、家の中が暖かくなった。洋子は、ゆっくりと息を吐き切り、「お母様、御免なさい」と言うと、自室に戻って行った。

 その年の北海道の冬の寒さは厳しかった。昭和四十六年の十二月の冬のことである。師走に入り、年を越すための正月に向けての生活は、何かと慌ただしい雰囲気を持っていた。洋子は、美しい少女であった。雅子は常々、「貴女は、良い子なのだから、お勉強だけしっかりして下さればいいのよ……。お母さんは、洋子さんを共学の公立高等学校に入学させたことを後悔しています。お父様もきっとそうでしょう……。兎に角、汚い男の虫が付かないように、しっかり生活をして下さい。そのためには、早寝早起き。何でも出されたものは、嫌がらずに食べること」と言った。洋子は自室でラジオを小さな音で、スイッチを入れた。細かい雑音の中から、NHKニュースの放送が流れてきた。老年のアナウンサーの男性が落ち着いた声で、その日の北海道の報道を読み上げる。昭和四十六年。様々なことがあった年であった。横綱大鵬が引退を表明し、アポロ十四号が月へと着陸した。洋子は、何故だかその男性が白髪の品の良い男性ではないかと思い、妙な官能を感じるのであった。それは不思議な空想であった。青函連絡船の羊蹄丸が海を渡る。海をゆっくり、ゆっくりと渡る青函航路の船に思いを巡らすと、生まれた時からの北海道民であるのに、洋子は不思議と懐かしさに似た感覚を覚えるのであった。テレビは父と母から禁じられていた。洋子の楽しみは、学校の図書室から借りる本を読むこと。自室で静かにラジオを聴くことであった。「春までは、非常に厳しい寒さが続く模様で御座います……。札幌市の皆様も、どうぞ暖かな服装でお過ごし下さい。これで、朝のNHKニュースを終わります。」

 洋子は、耳を傾けていたラジオを切ると、三宅隆嗣から、借りた本を読み始めた。読み出した本は、学生運動に熱を入れて、自死を遂げた女子学生の手記である。本を洋子に貸した、隆嗣は、北海道大学の経済学部の二回生であった。隆嗣とは、札幌市図書館で知己の関係になった。洋子が、魯迅の『藤野先生』が収められている、魯迅全集を探していると、隆嗣が、「それは、『阿Q正伝』が入っている巻だよね……。『藤野先生』と『魯迅書簡集』があるのは、こっちの奥の棚だ。」と、洋子に声をかけた。札幌市図書館に、足繁く通い、小説を読む洋子の様子を、雅子は決して快く思っていなかった。「洋子さん、よくお聞きなさい。小説を熱心に読むなど退廃の極みです。小説家などの無頼者は、殆ど社会主義者なのですから」母の雅子の常々の口癖。洋子にとっては嫌悪感を抱かせるものであった。

 「大人っぽいね、君は。札幌南高等学校の生徒だろう? 優秀そうに見えるから」隆嗣が洋子の瞳を覗き込んだ。洋子は頷いた。「少し何か飲まないかい。図書館の中だと無理だから、外に出てみよう」と隆嗣が洋子の顔をじっくりと見、言った。洋子が、「私は高校生です……。あの、大学生ではありません」と身を翻そうとした。しかし、一瞬にして隆嗣に手を掴まれてしまった。隆嗣がはっとした顔をして、「ごめん」と怜悧そうな顔に、驚きの表情を浮かべ、洋子の手を離し言った。しばらくの間、洋子と隆嗣の眼が引き合った。「少しの間だけなら……。でも、私は珈琲も何も飲めないから……。」洋子が魯迅全集を、手元から落とさないように抱えて言った。「貸し出しの帳面を書いたら、外に出てみよう」と、隆嗣が洋子を見つめて、言った。

  隆嗣に連れられて入った、純喫茶「ロラン」は暖かった。隆嗣は、慣れた風でブレンド・コーヒーを店員に言い付けると、白い陶器の灰皿を引き寄せ、ハイライトの先に火を点した。「遠慮しないで……。何でも頼んで良いから。俺、北大の学生なんだ。ケーキでも、クリーム・ソーダーでも好きだったら、頼んで食いな」隆嗣が煙草を吹かしながら言うので、洋子は戸惑ったあげく、トマト・ジュースを店員に注文した。

「可愛いね、君は。とても可愛い。良い顔をしている」隆嗣は、運ばれてきたブレンド・コーヒーのカップに口をつけると、何度もそう言った。

 洋子は男性に面と向かい誉められる経験は初めてであった。男という生き物は往々にして、一皮剥けば、混沌とした性的欲求を持て余しているものであると、洋子は思っていた。母の雅子が常々洋子に言い付けていたことである。隆嗣は黙々と、ハイライトの灰を灰皿の上に落とし、一本吸い終わると、また二本目を青色の箱から取り出した。洋子の目には、隆嗣の所作が神経質に見えた。

「美味しいのですか」と洋子が聞いた。「この煙草は強いよ。君には駄目だ」隆嗣はそう言うと、店員に手を挙げてアイス・クリームを頼んだ。すぐに、涼やかなバニラアイスが運ばれて来た。

「私、もう帰ります」と、洋子はアイスを半分食べ終えると隆嗣に言った。隆嗣は、頷くと胸ポケットから万年筆を取り出した。そして、洋子のアイススプーンに添えられた紙に、電話番号をさらさらと書いた。

「綺麗だから、貴女は。時々、気になっていたんだ」と隆嗣が初めて口ごもり言った。

 洋子が立ち上がった。学校鞄がテーブル席に当たり、アイススプーンが床に音を立てて落ちた。店員が洋子を見ている。隆嗣はスプーンを拾い上げると、ヴェルレーヌの詩集を開き始めた。洋子は急ぎつつも、何度も振り返ると、「ロラン」を後にした。

 ハンバーグ・ステーキの肉汁が滲んでいる。洋子は父の南条康司と、母の雅子と共に食卓を囲んでいた。「近頃、暗いんじゃないか」と康司が急にビールを飲みながら言った。「電気ですか?」と洋子が言った。康司が、「違う。洋子の顔色が明るくないと思ってな。血の色が悪い」と隆嗣が血色の良い顔色で言った。「食事中のお話しは控えて下さい」と雅子が言った。血の色、と洋子は繰り返し考えて見た。隆嗣の青いハイライトの煙の様子が頭をよぎった。「読書のし過ぎでしょう。洋子さんの本好きは誰に似たのでしょうね」と、雅子が嫌みったらしく、洋子に言った。洋子は怒りよりも、所在のなさを覚えた。「本? 洋子はそんなに本を近頃読むのか」と康司が一瞬、じろりと洋子の顔を見た。洋子はいたたまれなかった。「困ったものですよ。」と雅子が、フォークをことりと音を立てて皿の上に置いた。「ご馳走様でした」と洋子は言い、母と父の顔色を覗いながら、自室へと戻って行った。

 洋子は自室に戻ると、またラジオを付けた。「今夜のニューミュージックは……」とラジオから声が流れた。洋子はラジオを消した。流行歌のレコードを買うと、雅子はあからさまに嫌な顔をした。「しばられすぎている」と洋子は口に出してみた。冬の夜更けは早く、窓の外は真っ暗であった。吹雪く景色の外に、静かに遠くの家の灯りが一軒点っていた。洋子は隆嗣から借りた本をベッドの下から取り出した。本は雅子に見つからぬようにしてあった、読みかけの学生運動で死を遂げた、女子大生の手記であった。「私は、私を……、まだ生きてはいない……。」洋子は静かに呟いた。目の前には、造花のバラの鉢植えが置いてあった。隆嗣に色々教えてもらいたい、と洋子は思った。「奪われるかもしれない。でも」うとうとと眠りに落ちながら、洋子は半睡のまま考えた。「私は私をまだ生きていないのだ」洋子は、静かにそう繰り返し言い続けていた。目の前の赤い花のように、静かに感情の炎が燃えていた。窓の外は吹雪いていた。

                               

      第三章

 

「昭和四十七年の新春で御座います。札幌市の皆様は如何お過ごしでいらっしゃいますでしょうか。さて、ニュースのお時間で御座います。NHK総合テレビは全番組のカラー化を実施し……

 南条洋子は、目を落としていた本から顔をあげた。ラジオ放送局のチューニングが上手く合わずに、ちりちりとした雑音が混ざっている。洋子は、焦茶色のラジオに手を伸ばすと、放送局をNHKに合わせようとした。ラジオはぷつりと音を立てると、そのまま動かなくなった。何処か内部プラグの接触が悪くなった様子であった。

「洋子さん、お食事の時間ですよ」

階下から雅子の声が聞こえた。洋子は自室を出て行くと、階段を降りて行った。雑煮の匂いがぷんとする。空腹を余り覚えないまま、洋子は食卓に着いた。康司が洋子の階下に下ってきた様子を見ると、正月特別号の、ぶ厚い新聞を几帳面にたたみ、端に寄せた。

「洋子、お母さんが雑煮を作ってくれたよ。洋子の好きな鶏肉も入っているから、ゆっくり食べなさい」と康司が言った。

「新春ですね……。年も改まってしまいました。さあ、食べましょう」と雅子が、丁寧な口調で言うと、雑煮の鍋のふたを開けた。ぐつぐつと泡を立てて雑煮が上手そうな湯気を上げていた。

「お餅は少なめにしました。さあ、暖かいうちにどうぞ」雅子が言うと、お椀に雑煮を取り分けた。洋子はぼそりぼそりと椀に入った雑煮を口に運んだ。部屋の中は暖かい。康司が雑煮を一通り食べ終えると、「母さん、やはり餅が少ないと食べた気にならないね。」と言い、少なめの日本酒の入ったコップを上げて見せた。

「お餅ですか」と雅子が康司に聞いた。「そうだ。正月だから景気を良くしないと」と言い、康司が笑った。雅子は不服な顔をして腰を上げると、餅を取りに奥の間に入って行った。

「洋子、食わないじゃないか」と康司が洋子の顔を見て言った。洋子が、鶏肉と餅が入った椀をテーブルの上に置いた。

「ごめんなさい。お腹が空かないのです」と洋子が言った。

「昨日は夜食でも食べたのか。まあ正月だから、好きな時間にでも食べなさい。残してもかまわないから」と康司が言い、酔いが廻ってきたのか、愉快だったのか、珍しく声を出し笑った。

雅子が餅を持って来ると、「洋子さんは本の読み過ぎなのでしょう」とまた嫌味を言った。洋子は居たたまれずに、立ち上がり、自室へと駆け上った。

 

 うつらうつらと洋子はしていた。羊蹄丸の夢を見ていたのかも知れなかった。手元には隆嗣から受け取った手紙がある。あの札幌市図書館で、魯迅全集を手渡してくれた隆嗣。雅子と康司の目を盗んで二度ほど逢瀬を重ねる関係になっていた。新春の前に、札幌市図書館で隆嗣は洋子に長い手紙を渡した。手紙の長さは脹れあがった封筒の大きさから推量できた。「洋子さんに読んで欲しいんだ」と隆嗣は、初めて顔を真っ赤にして言った。「読んでくれるよね」と隆嗣が確かめるようにして訊ねた。「すぐには無理だと思います」と洋子は、封筒を受け取り、正直に隆嗣に伝えた。「ありがとう」と隆嗣は言うと、続けて洋子の手に触れようとした。洋子はそれを、振り払った。「悪かった」と隆嗣が言った。「大丈夫です。お気にならさないで下さい」と洋子が言った。そのまま二人で、札幌市図書館内のフランス文学の棚の前で別れた。「ありきたりだけど、ランボーが好きなんだ。僕は」と隆嗣は別れ際に、書棚の手前で立ち止まり言った。隆嗣は、岩波文庫の『地獄の季節』を取り出すと、洋子に表紙を見せた。「小林秀雄翻訳のランボーだ。君もしっかり小林秀雄は読んでおくと良いよ。大学入学試験の国語には、必ず出題されるからね」と隆嗣が言った。洋子は何度も、隆嗣にお辞儀をし、振り返りながらその細い背を目に焼き付けると、南条邸へと帰って行った。

 

「拝啓 南条洋子さん 堅苦しい手紙になってしまい、まずは謝りたいと思っています。何から書いたら良いのか戸惑ってしまうけれども、南条さんのことを札幌市中央図書館で見かけるたびにとても気になっていました。理由は僕には恋に落ちたとしか言えません。僕がランボーや、マラルメだったら幾千言もの言葉で貴女への思いを伝えられるかもしれないけれど、持てる言葉の範囲では、不可能だろうと思っています。南条さんは札幌南高等学校の生徒さんだということは、実は人づてにもう聞いていました。やはり貴女は学校でも名が通っているらしいですね。勿論、美しいということでです。僕の話しをさせて下さい。将来は経済学部だから、医者にはなれないですが、貴女のためなら司法試験を受けて、弁護士になどになっても良いと考えています。洋子さん、好きです。僕は想像の中では、もう貴女を汚してしまった……。昭和四十七年春 三宅隆嗣」

 

洋子は再び手紙を読み返すと、胸から酸っぱいものがこみ上げてくるのを感じた。それは、隆嗣も母の雅子が言う通り、一人の男に過ぎないという失望であった。また、洋子の何処かに隆嗣に対する羨望の気持ちがあったためかも知れなかった。とんとん、と部屋の扉をノックする音が聞こえた。洋子は「はい。どなた」と言った。「お雑煮を頂かなかったから、少し残ったものを持って来ました。召し上がるかしら」と雅子の声が扉越しにした。「どうぞ」洋子がそう言うと、雅子が部屋の中に入るなり、「少し寒いわね。暖かくして」と言った。

 

      第四章

 

 北海道という場所——。そこは、洋子にとって幼い時から、違和感を覚える空間であった。富良野にはラベンダー畑があり、網走には、刑務所がある。洋子は、肌の色が白い。その肌のきめ細かさは、北海道に散る雪の白さに成長すると共に、近くなるようであった。秘められた性……、それは洋子にとって汚らわしいものであった。美貌を持つ洋子に好奇の目を寄せる男たちがいる。隆嗣も洋子のそのような対象として見ているのだろうか、隆嗣ほどの男であれば、そのようなはずがないであろう——しかし、洋子の心理に影が射すことが多くなった。

 

 西日が射す、札幌南高等学校の校舎の図書室の中で、洋子は心理学の図書の周りを逍遥し、図書を一冊手に取ると頁をめくり、そして静かに図書を棚に仕舞うことを繰り返していた。「フロイド」という人の本の背表紙の名前を見、そして立ち止まると、洋子の心臓の鼓動が高鳴った。フロイドという人の名前は、NHKのラジオ高校講座で、聴いたことがあったのである。無意識の性の探究者フロイド——。急にNHKの老年のアナウンサーの声が甦った。遠くで、青函連絡船の羊蹄丸の警笛の音がするような、青ざめた光景が浮かんだ。「羊蹄丸が行く」洋子はそう呟くと、急な眩暈を覚えて、その場に座り込んでしまった。赫い日が洋子の頬を染めた。床に落としたフロイド著作集の分厚い背表紙を見、気持ちが落ち着くまで、洋子はしばらくの間、呆然としていた。

 

洋子が、札幌市中央図書館へ向かおうとする朝、軽い地震が道内に起きた。洋子は、平然として電灯が揺れる様子を眺めていたが、雅子はそうではなかった。

「地震でしょうか」と洋子が康司に聞くと、「まだ様子がはっきりしないね。札幌だけ揺れているのかどうかね。しばらく様子をみよう」と言った。雅子は、急に青ざめた白い顔に変わり、勝手の奥へと入って行った。その時、急に残酷な心理が洋子の胸に去来した。雅子が、青ざめている様子に、心持ちを良く覚えている自分を発見したのである。思わず、「お母さん」と洋子は言い、雅子の元へと駆け寄った。雅子の瞼の下に、うっすらと涙が浮かんでいた。その眼を見た瞬間に、洋子は動揺を覚えた。

「また図書館に」と雅子が言った。また図書館にいらっしゃるのね、という意味であろうか。もう図書館に行くのをよしなさい、という意味であろうか。気分が洋子もはっきりしないまま、急に隆嗣の顔が見たくなり、いつもの朝の食卓に戻ると、「行ってきます」と言い、洋子は札幌市中央図書館へと向かった。やはり、少し暖かな春の日和であった。(続く)


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