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  森本正昭  随想『異界への通路』 
           
          2018.09.09登録
 

理科好きの少年に訊くがよい。日中の空は青いが夕焼け空は赤いわけ、その違いを教えてと。

青空はすべての人を幸せな気分にさせる魅力を持っている。台風一過の空の青さに惹かれてしばし眺め入る。いつも患者の口腔を覗いている歯科医は美しい青空を目にしたとき、職業選択を間違えたかと嘆き、血染めの外科医も同様に不遇さを嘆きつつ、足早に病棟に向かっていった。

宇宙飛行士に憧れを抱いていた少年は飛び切りの青空を見たとき、いっそう宇宙飛行士への憧れを深くした。宇宙は暗黒の世界で、青空などどこにもないのに、空の青さがどこまでも続いていると勘違いしているのだ。宇宙の渚に行ったからといってマスコミに騒がれる時代は過去のものである。

詩人や小説家は、「抜けるような青さ」のような巧みな表現に慣れすぎていて、特別な色の表現に苦心惨たんする。文学的な色の命名には限界がある。それでも青色には邪気を払う効果があると信じている。

海洋生物研究者は空と海との境界に住む魚類の巧みな擬態に感嘆する。空から見ると海の色、海底から見上げると空の色をしている魚が多種類いるのだ。天敵をかわす知恵が肌に染み込んでいる。太刀魚の群れが銀鱗の魚体を輝かして忙しそうに南方に移動していった。どんな海獣もその光集団に驚愕した。

多くの生物が異常気象の現状を嘆き大きな吐息をつく。護ってくれる自然から、攻撃する自然に環境が変わってしまったのだ。

気象庁は美しい空の予報はしなくてもよいのかと戸惑う。明日は洗濯日和です、といった庶民的予報を懐かしむ。異常気象によって、これが今年最後の青空になるかもしれません、と臨時ニュースを発表した。でも市民を不安に陥れる情報を発表することを何らためらわない。市民はその威嚇表現に慣れっこになっている。「人類史上最大の巨大台風が近づいている」、「五十年に一度のゲリラ豪雨」とかである。そのニュースに市民は驚かないし避難することもない。またかと思いながらも、それでも人々は厚い災害雲が地球を覆いだしたことに気づいている。もう手遅れなのだという予言者や祈祷師があちこちに出没している。ならば災害雲の上に家屋ごと浮き上がればよいと言う浮遊態建築家が現れた。私の知識では空中に浮遊する気球状のものに身を預けることは決して快適ではない。落ち着けないのだ。

災害雲騒ぎが始まった頃、ある先進病院の待合室に大勢の人が押しかけてきた。この病院は以前は鬱の治療に特異な力を発揮していた。いまそこでどんな施術が行われるのか人々は知っていても、修行僧のように黙して語らない。待合室にいる人々はひたすら待ち続けている。名前を呼ばれた患者は不安げに診察室に入っていく。ときおり赤色のフラッシュがきらめく。患者の悲鳴が聞こえることもあるのだが、誰も気にしている様子はない。この病院、何か変なのだ。診察室に入っていった人は誰一人出てこないのだ。出口は入り口と同じで、内部には別の出口はない。ここに来たからにはどんな可能性も想定の範囲を超えている。ハワード・ワイズマン(豪、グリフィス大)の語る時空を超えたパラレルワールドが関係していて、人々はもう一つの世界に移送されることを期待している。この病院にはこの世で生きづらい人々がやってきて、別次元の世界に飛躍したいと要望する。問診は詰問調で施術は事務的に行われる。平安を獲得した者が再びこの世界に戻れる可能性を確かめておく必要がありそうだ。

青空は太陽光のスペクトルの短い波長の青色だけが空気中で乱反射して上空に漂う現象であるが、そこに一片の白い雲が浮かんでいることがある。青空から連想するものは童話の世界である。夕焼けはなぜ赤いのか。夕刻には空気の層を太陽光が横切って来るので波長の長い赤い光だけが地上に到達する。それで視界の全領域が赤い光に包まれる。それなら朝焼けも同じはずだ。でも朝日と夕日の比較は勝負あったといわんばかりに夕日が美しく、幻想的である。究極の夕焼けから連想するものは満州の落日であろうか。

異説であるが、満州の赤い大きな夕日、壮大な夕焼けを見たことがある人は、日本の夕日なんて比較にならないと言うだろう。これがパラレルワールド(PW)の通路であると知らされると、夢の新天地を求めて移住し、惨たんたる苦難を嘗めさせられた開拓者達は満州がPWなんてありえないと告げようとする。それでもあなたは満州を異界と呼ぶ。

「そうか、満州の夕焼けは異界への通路だったのだ」「通路なら狭隘な場所ではないのか」「否!道はない。広大な荒野を飛翔するのです。既成の通路を行くのではなく、自分で道を造りながら進むのです。そうでないと、元の場所に帰ることができないからです。では幸運を祈ります」。

警告!色彩の極端な変化があるとき、異界が間近に姿を現すと思え。その美しさに魅入っていてはいけない。日本の対ソ参戦を探っていたスパイ・ゾルゲに偽の情報を掴ませて、異界からソ連兵が消えたとき、なぜわが国はこの異界に進攻しなかったのか。もし実行していたら世界地図は大きく変わっていたはずなのに。

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