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  森本正昭 ミニ小説 『特高だった上司』 
                  
                  2016.11.16 登録
 東京都練馬区 

私が大学を卒業したのは、日本がやっと戦後の混乱から抜け出た頃であった。就職が厳しい状況の中で私を拾ってくれたのはある食品会社だった。採用された新卒者は約10名で半年間、新人研修が行われた。会社側からすると採用者の適性を判断することが目的であったと思う。講師にはつぎつぎと特徴のある人物が登場するので、新人研修は大学の講義より面白いと感じていたが、その後それは私の勘違いであることが分かった。

研修期間の最後に研修生の肝試しのような試練が待ち受けていた。それはその会社の製品を背負って一般家庭を戸別訪問し何個売れるかを競わせる販売実習だった。肩に食い込む商品の重さには閉口した。担いでいった製品は戦後間もない日本には馴染みの薄い品ばかりであった。チーズ製品、トマト製品などである。各自工夫して売ってこいという命令なのだが、私は門前払いを食うだけで1個も売れないのだった。自分の家族に預けて売れたことにする不正をする者もいたが、私は悪知恵が働かなかったので、朝に背負っていった重量が、夕になっても少しも減ることはなかった。

売れない研修生には指導者がついて、販売指南をしてくれた。お前さんはこの製品を食したことがあるんか、売る製品を知らないで売れるはずはないだろうが、と叱られる。それで瓶や缶を開けて食してみた。ウエーこれは何だ。手の込んだ料理の調理品として使うらしい。じゃあレストラン巡りをやればどうでしょうと指導者に訊ねると、あくまで一般家庭に持ち込んでくれ、レストランでは価格競争になって値切られるだけだという。どうすればいいのさ。

まるで売れない研修生がもう1人いた。国立大学の農学部出身で山本といった。現実離れをした人物で販売活動はやっていないようだった。でも背負っていった製品が次第に減っていくのが見て取れた。どうしたのか訊ねてみると、料理教室に持ち込み調理してもらい大勢でパーティをしたという。売れたわけではないという。私はあきれ顔で彼を見つめた。そのうち研修も終わるよと平然としている。

最下位になると「ムショ送り」になるという噂が広がっていた。一番売った奴は群を抜いていた。この競争が将来を左右するという噂もあったので、懸命になっているらしい。前途の困難さを思い知らされた私はムショ送りという言葉が気になった。送り込まれる先は信州の高原地帯にあり、高原野菜の試験栽培や収量検査を業務としていた。地元では通称「研究所」と呼ばれ、所長は山村という人だが、その人は「トッコウだった」と聞いた。私は特攻隊の生き残りを連想した。そうではなく特別高等警察を略して特高だという。特高の話になると、社員たちはなぜか声を潜めるのが何とも不気味であった。作家・小林多喜二は特高による取調べ中、拷問によって虐殺されたことや言論弾圧事件が頭をよぎった。

販売競争は予想通り、私が群を抜いて最下位だった。もう1人は農学部出の山本で彼もムショ送りとなった。同僚は大げさに笑いこけて私をからかった。また何人かの先輩が声を潜めて特高上司への対策を教えてくれたものだ。

山本と私はのんびりした列車に乗って新任地に赴いた。小海線のとある駅まで行けばよいと聞かされていた。車窓に写る高原の風景はすばらしいものだった。ムショ送りも悪くはない。その駅に辿り着くと1台の馬車が待っていた。乗合馬車であろう。御者が「乗れよ」というので研究所へと告げて乗り込んだ。御者は小柄で筋肉質の農民風の人だけれど、おしゃれな登山帽をかむっていた。私はまるで登山客になった気分で高原の景観に見とれていた。御者は親切で、他の客の手を取って降ろし、荷物を家の中まで運んであげていた。山本はお金を少額しか持っていないので馬車賃を支払えるか心配していた。御者は戻ってくると次は研究所だ、前方に赤い屋根が見えるだろと小声で呟いた。研究所に着くと先に所内に入っていなさい。ワシは馬の面倒を見てから行くので待っていてと言う。そうだ!まだ馬車賃を払っていない。それをもらいに来るのだろう。

長旅の疲れがあったがやっと着いたなと喜び合った。まるで登山客が山小屋に着いた気分だった。しばらくして御者が入ってきた。馬車賃はおいくらでしょうかと訊ねると、御者は驚いた表情をした。そして近づいてくると俺は所長の山村だ。お前たちを駅まで迎えに行ったのだと憤然とした表情になった。これにはぶったまげた。元特高の強烈なびんたが飛んで来るのを覚悟した。しかし所長は山本君と森君だったな。挨拶はよいから、いまから夕食を作ろう。手伝ってくれ。明日の朝は早いぞ。ホワイトアスパラガスの収穫を手伝って貰う。ホワイトアスパラは陽が出る前に収穫しないと売り物にならないのだ。朝3時半には起きてくれよ、と言う。御者がまさかの所長だと気づかなかった驚きと謝罪の気持ちで、手伝えと言われてもぎこちない対応しかできなかった。初対面だから優しく振る舞っているのだろうが、怖れていた特高とは大違いで暖かみを感じさせる好人物である。特高は仲間内では頭を付き合わせて小声で話す習慣があるらしい。秘密話でなくても小声の方が相手に正しく伝わると聞かされた。小声で明日は暗い内にアスパラを堀りにいくと聞くと、こっそり盗みに行くのかなと疑ってもみた。

遠方に雪を被った山並が人々の生活を見下ろしている。高原での生活は自然の美しさに囲まれて快適なものだった。都会では得がたいものがここにはある。それでもここで仕事を続けたいと言う若者は1人もいない、と山村は寂しそうな表情を見せた。しばらくして私は本社に召還されることになったが、山村は最後にカツ丼をご馳走してくれた。それが特高の流儀であるらしい。
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