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森本正昭  東京都練馬区
        ミニ小説 『帰ってきたぬいぐるみ』
                         2014.08.24


 
男、45歳、都会に出て来てから、はや20年を経過していた。未婚である。

 男のアパートに女性が出入りしたことはこれまで一度もなかった。ところがある年の瀬の夜、知らない女がやってきたのだった。しかも泊まっていった。嘘みたいな話だけれど本当の話である。酒場で隣の席にたまたま座ったというだけなのに、女は「今夜は家に帰りたくないから、もう一軒付き合って」といった。男もそれに付き合っても悪くないという気分になっていた。声がきれいなことが場違いな印象を与えていた。女は陽気に振舞っていたけれど寂しそうな感じが表情に滲み出ていた。そこで男のアパートに近い、たまに一人で飲みに行く飲み屋に行くことにした。その挙句、男のアパートについてくることになった。冷蔵庫の飲料水を口にした後、眠そうにしたので男は布団を敷いてここで寝なさいと言った。

 翌日男は仕事に行かねばならなかったので早くアパートを出た。鍵は入り口に置いてある観葉植物の鉢の下に置いて欲しいとメモして出かけることにした。

 帰宅してみると女は一宿一飯のお礼ということか、部屋が見違えるようにきれいに片付けてあった。男が大事にしていたぬいぐるみも、汚かったせいか片付けられてしまったらしい。見当たらないのだ。その他にはなぜか下着が何枚かなくなっていた。メモとして「近い内にまた来ます。汚れた衣類は洗濯してきます」と置手紙が書かれてあった。

 しかし、一週間待っても一ヶ月待っても女は現れなかった。二度と現れないこともありと覚悟はした。名前はヨウコと言っていたが、連絡先は聞いていなかなかった。

 

 その間、女は泥沼のような離婚交渉の悲劇を体験したのだった。それに親の死別も重なったのである。精神的に追い込まれていてどうしても時間が取れなかった。それでも女は男の部屋から持ち出した衣類やぬいぐるみを洗濯して返しに行くつもりでいた。

 親のお墓参りに行くとき、女は男に返すための包みを持って行ったけれど、手違いでそれをお墓に忘れてきた。きれいに洗ったぬいぐるみと新しいぬいぐるみもそこに入っていた。それに気がついたとき、急いでお墓に戻った。しかし雨のせいでぬいぐるみはずぶ濡れになっていた。泣いているようにさえ見えた。

 男がぬいぐるみを大切にしていたのには理由があった。実はぬいぐるみのお腹のところに、小さなポケットが付いていて、そこに母の形見の高価な指輪が入れてあったからである。それを女が盗って行ったのか。売ってしまったのか、とも想像の範囲にあったが、どうしてもそうは思いたくなかった。男はあくまでも純情で世間知らずであった。女がもう一度来てくれると思っていたので、アパートの鍵はいつもドアの外の観葉植物の鉢の下に置いたままだった

 そしてある日、女は遂にやって来たのである。2匹のぬいぐるみと一緒に。

 入り口に置いてある観葉植物はその頃、小さい白い花をいっぱい付けていた。



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