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  桂 一雄 

随筆 「A・シモンズ「表象派の文学運動」」
登録 2017年10月31日

一 

  大学時代、フランスの詩人に熱中していた。ボードレールから入ってランボー、ヴェルレーヌ、ヴァレリー、ラフォルグ、マラルメ、アポリネール、ラディゲ、コクトー、ジャムなどの詩を知った。今思い出しても懐かしい。これら詩人たちの名前を知ったきっかけは堀口大学の『月下の一群』(新潮文庫)である。これを読んで詩というものに本格的に向き合う事になった。

 『月下の一群』というタイトルの示す通り、この天ヶ下に棲息する詩人の一群に魅了された僕は、続いて、『上田敏全訳詩集』(岩波文庫)を読んだ。これらアンソロジーは詩人の名前を覚えるのに役立った。

 その後、アンソロジーでは飽き足らず、個人の詩集を読み始めた。『悪の華』や『地獄の季節』などを複数の訳で読んでみたが、それぞれの訳者の訳業に感嘆するばかりであった。

 翻訳詩に触れ、感心した僕はこれについて書かれた文章がないか探し始めた。具体的には詩人論をあさり始めた。その際、最初に名前を知ったのがアーサー・シモンズの「表象派の文学運動」である。邦訳されているか調べると何名かの訳者によって訳されていることがわかった。リストアップしたのが

 

『象徴主義の文学運動』 樋口覚訳 国文社,

『象徴主義の文学運動』 前川祐一訳 冨山房百科文庫,

『完訳 象徴主義の文学運動』 山形和美訳、平凡社ライブラリー

 

である。以上三つの訳があることがわかったが、その後調べを進めるとこれ以外にも岩野泡鳴訳のものがあることが判明した。これは大正二年に新潮社から出版されたが、入手は困難に思われたので一旦あきらめることとした。

 こうして選択肢として三つ残ったわけであるが、一番簡単に入手ができそうな 山形和美訳『完訳 象徴主義の文学運動』を購入することとした。

 実際に購入し、そして通読したわけであるが、この後に予期せぬ事態が待っていた。実は岩野泡鳴訳の「表象派の文学運動」を読むことができるとわかったのである。

 真相はこうである。たしかに大正二年に新潮社から出版されたものを読むのは難しい。しかし、泡鳴には『全集』がある。この『全集』に泡鳴の訳した「表象派の文学運動」が収録されているというのである。これを人づてに聞いたときには驚いた。すぐに大学図書館に向かい、全集を探し始めた。

 そもそも泡鳴の『全集』が大学図書館にあるのか不安であったが検索をかけたらすぐにでてきた。書棚に向かい、『全集』が鎮座しているのを見たら安心したのを記憶している。しかし、安心したのもつかの間、この『全集』には索引がついていないことがわかった。これはお目当ての作品を頭から虱潰しに探していかなければならないことを意味する。一巻から順番に目次を開き、「表象派の文学運動」が収録されていないか探すのである。

 まだないかまだないかと必死に探してようやく見つけた。収録されていたのは『全集』の第十四巻であった。すぐにコピーをとり、読み始めた。しかし、すぐに難渋した。訳文が難解であったのだ。

 強引に読み進めて、なんとか読了したのだが、岩野泡鳴の訳した「表象派の文学運動」は訳文が難解なこともあり、読みにくい印象を受けた。はたして泡鳴の訳が下手なのか。それともシモンズの英文が拙いのか。この問題については評論家河上徹太郎が答えてくれる。

 

 泡鳴の訳は、直訳というは愚か、ただ横の単語を縦に置き換えただけみたいなもので、一見奇妙な文体と造語だが、案外誤訳は少ないようである。(「象徴派的人生」『有愁日記』所収)

 

 「誤訳は少ない」とはいいながら、「横の単語を縦に置き換えた」という指摘があるあたり、やはり訳文に問題がありそうだ。河上はヴェルレーヌをはじめとした象徴派詩人についての文章を複数発表しているが、彼は泡鳴訳の「表象派の文学運動」を若いころに読んでいた。その証拠に、評論「日本のアウトサイダー」などでもこの本について触れている。

 

 

 今回、この稿を書き起こすにあたって、「表象派の文学運動」を再読したのだが、気付いたことがある。それはこの評論が単なる詩人論、作家論の集積にとどまらず、文芸の本質論にまで昇華しているということだ。ここでいう文芸の本質とはなにかというと、言語の問題に他ならない。

 詩であれ、小説であれ、言葉を紡いで作る。そのため、それぞれのジャンルと言語の問題は切り離すことができない。しかし、正面切って取り組むことはこっ恥ずかしくてできない。それだけに始末が悪いといえる。それにも拘わらず、シモンズは逃げなかった。表象主義の分析を通して、詩を構成する言葉―素材ともいうべき要素―に言及している。このことは「諸言」に詳しい。

  表象主義なしに文学はあり得ない、実は言語さえもだ。単語その物が表象でなければ何だ?その勝手邦題なことは殆どこれを組み立てる文字の如く、単に声音の響きそれに僕等が一致して一定の意味を与えたのは、僕等が一致してこの諸音を翻訳するにかの組立てられた文字を以ってしたが如し。

 

引用からは言葉自体に目を向ける必要があることを示唆しているように受け取れる。詩と言葉の問題、これについてはこれまでも議論されてきた。そして、今後も議論されるであろう。詩が紡がれる限り、なくなることはあるまい。そしてそのたびに評論家は頭を悩ませるのだ。

一篇の詩を読み、その中にちりばめられている言葉の意味を把握する。そしてその背後に広がる詩人の世界を掴みたい。そんな切実な願望が大学生の頃の僕には確かにあった。