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桂 一雄   
随筆
『ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』』
 
           
          2017.08.27登録
高校教師 

 本稿ではロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』(岩波文庫)をとりあげる。音痴の私は歌うことは不得手であるが、聴くことはできる。せめて聴いて音楽を理解することができればと学生時代から考えてきたが、近頃は聴くのすらおぼつかない。そこでせめて読んで理解できればと思っている。活字を通してなんとか音楽に接することはできないものか。こうした願望が本稿を執筆する契機となった。

さて、本題へ入る前にまずはベートーヴェンについて言及している小説、詩、評論、エッセイを紹介したい。

 

この間しめ出しを食った時なぞは野良犬の襲撃を蒙って、すでに危うく見えたところを、ようやくの事で物置の家根へかけ上って、終夜顫えつづけた事さえある。これ等は皆御三の不人情から胚胎した不都合である。こんなものを相手にして鳴いて見せたって、感応のあるはずはないのだが、そこが、ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみと云うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおうにゃごおうと三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙の音と確信しているのだが御三には何等の影響も生じないようだ。(夏目漱石「吾輩は猫である」 原文のママ)


トルストイは、ベエトオヴェンのクロイチェル・ソナタのプレストをきき、ゲエテは、ハ短調シンフォニーの第一楽章をきき、それぞれ異常な昂奮を経験したと言ふ。トルストイは、やがて「クロイチェル・ソナタ」を書いて、この奇怪な音楽家に徹底した復讐を行ったが、ゲエテは、ベエトオヴェンに関して、たうとう頑固な沈黙を守り通した。(小林秀雄「モオツァルト」)

 
月の光のそのことを、/盲目少女に教えたは、/ベートーヴェンか、シューバート?/俺の記憶の錯覚が、/今夜とちれているけれど、/ベトちゃんだとは思うけど、/シュバちゃん/ではなかったろうか?(中原中也「お道化うた」)


近代音楽の堕落は、僕は、ベートーヴェンあたりからはじまっていると思うのです。音楽が人間の生活に向き合って対決を迫るとは、邪道だと思うんです。音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです(太宰治「渡り鳥」)


音楽と美術! 何という著るしい対照だろう、およそ一切の表現中で、これほど対照の著るしく、芸術の南極と北極とを、典型的に規範するものはない。先ず音楽を聴き給え。あのベートーベンの交響楽や、ショパンの郷愁楽や、シューベルトの可憐な歌謡や、サン・サーンスの雄大な軍隊行進曲やが、いかに情熱の強い魅力で、諸君の感情を煽ぎたてるか。(萩原朔太郎「詩の原理」)


―久彌君、と思い出したように呼び掛けた。

ちょっとびっくりして振り向いた。

―いつかピアノを弾いてくれると約束したね?

―ああそうだった。

―ひとつ頼むよ、いいだろう?」

―弾きます、と嬉しそうに答えた。

―「月光」を弾いてくれないか、あれを聴きたい。(福永武彦「風土」)


  もし時間があれば、ベートーヴェン協奏曲の三番を弾いてお聞かせするんですけど。今あれを練習しているんです。あの曲にはそういう感情が……私の今の感情と同じものが含まれているわ(ドストエフスキー「虐げられた人々」)


木が民族や家族をなし、森や林をなして生えているとき、私は木を尊敬する。木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。そのような木は孤独な人間に似ている。何かの弱味のためにひそかに逃げ出した世捨て人にではなく、ベートーヴェンやニーチェのような、偉大な、孤独な人間に似ている。(ヘルマン・ヘッセ「庭仕事の愉しみ」)


アトランダムに引用したが、これらの文章を通して僕はベートーヴェンに接したのである。先ほども述べたが、聴くのではなく読んで、ベートーヴェンを捉えようとした。しかし、こうした目論見は失敗に終わった。活字でとらえたと思ったベートーヴェンの実像ははるかかなたにあった。

 さて随分と紙幅を費やしたが、いよいよ本題にはいりたい。洋の東西を問わず、幾人もの文人がベートーヴェンについて言及しているが、そのなかでも、ロマン・ロランは白眉といえる。

 ロランはベートーヴェンの一生を俯瞰して「彼の全生涯は嵐の一日に似ている」と評した。そのうえで、代表的な曲に沿う形でその生涯を説明している。


最初には爽やかに澄んでゐる朝。もの倦いかすかな微風が吹く。しかし早くも不動の大氣の中に、ひそかな威嚇があり、重苦しい豫感がある。突如、大きな幾つもの影が横切り、悲劇的な雷鳴と、凄いざはめきに満ちた沈靜と、猛烈な風の打撃が来る。―卽ち、『』と『第五』とがそれである。


夕闇が降りてくるにつれて、嵐は集積する。そして今や、稻妻を荷つて膨張してゐる重い眞黒な雲の團塊、―それが『第九交響曲』の最初の部分である。―大旋風の最高潮に於いて急に闇が裂けて、無明が天空から追ひ出され、意志の行為に據つて晝の光の明澄さが取り戻される。


一筋縄ではいかないベートーヴェンの一生を曲とリンクさせながら見事に描き切った評伝文学の名作『ベートーヴェンの生涯』。この作品に対して、これまでいかなる評価が下されたのか。一つ引いてみる。


  ベートーヴェン=ロランに共通して流れるものが私共にとって意味を失ったと考えるのは本当に正しいのだろうか。私たちは私たちの道を歩くのだという声が、今日―丁度、日中戦争の前夜に、世界の新体制を叫んだのに似て―さかんに聴えてくるが、私はそれを必ずしも肯定するわけにはゆかない。ロランの「ベートーヴェン」が、ただの古典になってしまったとは、私には思えないのである。(遠山一行「ベートーヴェンと後世」)

 

「ただの古典になってしまったとは、私には思えない」とは、率直な感想であるが、この意見には賛成したい。ようするに、まだ埃をかぶっていないのだ。乗り越えるものが出てきたとき、この本は古典になるに違いない。

 ロランの『ベートーヴェン』は他の文人たちの散発的な物言いとは明らかに異なる。彼の語り口には対象に真正面から取り組んだものにしか言えない《真実》がある。ここでいう《真実》とは歴史的事実の異名ではない。ある人物についてより深く知りたいと信じたものだけが到達する事実である。この事実の前には客観的な歴史的事実なぞ木端微塵に吹き飛ぶ。所詮、客観は最大公約数に収斂される。いくら客観が束になって殴りかかったところで主観には到底敵わない。主観は客観が相手であるかぎり負けはしないのだ。


※付記 文献から引用する際、歴史的仮名遣いと漢字表記は原文のママとした。なお、その際、ルビは適時省略した。


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