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桂 一雄   
随筆『アナトール・フランス小論
     ―青春についての考察―』
 
           
          2017.08.06登録
高校教師 

  青春は長い坂上るようです
   誰にもたどりつける先はわからない

 

近頃、口ずさむ歌の一節である。昔のアイドル、岡田奈々が歌った「青春の坂道」という曲だ。世代ではないのだが、詞が良いので気に入り、よく聞いている。いったい誰が詞を書いたのか気になって調べてみると、作詞は都会の吟遊詩人松本隆であった。しかし、この曲は雑誌『明星』の募集歌であり、松本は素人の詞を少し手直ししたのが実情らしい。

この曲を聴きながら、「青春とは何だ」と自問自答する。青春という坂道を登り切り、その頂から己の軌跡を見下ろす。その時、もはや青春と呼べる時期が去っていたことがわかる。したがって、青春とは、そのまっただ中にいる間はわからないものなのだ。あゝあれが青春だったのかとわかった時、すでに青春の坂道を下り始めているといえよう。

皆、過ぎ去った青春を懐かしむしかない。人は青春という迷子の時代を通過して、大人になるのだ。そういえば、「青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」という歌詞の曲があった。行先不明や、迷いは若さの特権なのか。

ここまで書いて、アナトール・フランス(以下フランス)のことを思い出した。彼のことを考える際、「青春」というキーワードがついてまわる。

フランスのことを知ったのは大学生の頃であった。「エピクロスの園」という書名が作者の名前と合わせて三木清の著作に出てきた。

 

深田先生はまた、アナトール・フランスが好きであったようで、お訪ねするとやはりその話がよく出たものである。その頃私の見たのは『エピクロスの園』くらいであったが、後にパリの下宿で一時アナトール・フランスのものばかり読みふけったことがあるのは、深田先生の話がいつか私の頭に染みていたせいもあるであろう。 (「読書遍歴」)

 

 当時、三木の著作を読み漁っており、たまたま目を通したのが『読書と人生』(新潮文庫)であった。この文庫本に収められているエッセイには様々な文人、書名が紹介されていた。フランスもその一人である。

 

 

 日本ではフランスは芥川に影響を与えた作家として語られることが多い。確かに、フランスの名は「歯車」や「文芸的なあまりに文芸的な」に登場する。

 

  冬の日の当つたアスフアルトの上には紙屑が幾つもころがつてゐた。それ等の紙屑は光の加減か、いづれも薔薇の花にそつくりだつた。僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へはひつて行つた。そこも亦ふだんよりも小綺麗だつた。唯目金をかけた小娘が一人何か店員と話してゐたのは僕には気がかりにならないこともなかつた。けれども僕は往来に落ちた紙屑の薔薇の花を思ひ出し、「アナトオル・フランスの対話集」や「メリメエの書簡集」を買ふことにした。(「歯車」) 

 

アナトール・フランスは十字架を背負つた牧羊神である。尤も新時代は彼の中に唯前 世紀から今世紀に渡る橋を見出すばかりかも知れない。が、世紀末に人となつた僕はやはりかう云ふ彼の中に有史以来の僕等を見出してゐる。(「続文芸的な余りに文芸的な」)

 

 このように芥川の作品のなかに幾度かフランスの名前が出てくるが、彼は翻訳もしている。フランスの「バルタザアル」には芥川の訳があるのだ。「『バルタザアル』の序」で次のように言及している。

 

  自分も多くの青年がするように、始めて筆を執つたのは西洋小説の翻訳だった。当時第三次新思潮の同人だつた自分は、その翻訳の原文をアナトオル・フランスの短編に求めた。「バルタザアル」の一篇がそれである。

 

 この文章を読んだとき、驚いたことを覚えている。芥川が創作よりも先に、翻訳に手を付けていたとは。しかし、年代順に並べられた『全集』の第一巻の巻頭に置かれている以上、彼の最初の仕事であることは疑いようがない。

芥川のことに紙幅を費やしたが、フランスの作品を翻訳したといえば、石川淳の名前を忘れてはなるまい。名著『文学大槪』(中公文庫)のなかに作家論が収録されているが、ヴァレリィやマラルメに並んで、アナトール・フランスについても一章設けられている。

  

出来上がった人柄全体を支えているものは位置の定まらぬ知識の集合と見るほかなく、ただそれが限られたひろがりの中で統一されて、かなりうつくしい教養の平面図を形成していた。

           

フランスの多様性を「位置の定まらぬ知識の集合」を石川は定義しているが、これはほめ言葉である。小説や文芸批評だけでなく、社会批評まで書いたという事実は教養の広さの裏打ちであり、このことは特筆に値する。

 

 

ここまで、三木清を筆頭に、日本の文人によるフランスへの言及について触れてきた。随分と回り道をしてしまったが、いよいよフランスと「青春」について語るべき時が来た。

 

私が造物主であったら、いま優位を占めているタイプ、すなわち高等哺乳類のタイプとは非常に異なったタイプに基づいて、人間の男女を造っていたであろう。現にあるような、大きな猿に似たものにではなく、昆虫に似たものに男や女を造っていたであろう。毛虫として生きた後に、姿を変えて蝶となり、その生涯の果てには、愛することと美しくあることとのほかには心を配らない昆虫に似たものに。わたくしだったら人間の生涯の最期に青春を持って来ていたであろう(『エピクロスの園』岩波文庫)(強調 桂)

 

 強調部分については「私が神だったら人生の最後に青春をもってきただろう」などと訳される。最後でなくともよい。人生に二度、青春時代があったなら。若さゆえに過ちを繰り返し、他人を傷つけ、己も傷ついたはずの青春をもう一度体感したい。今度こそうまくやるはずだという儚い望みを胸に抱いて。

 僕はまだ老年と呼ばれる年齢ではない。しかし、青春の啓蒙期が過ぎようとしているのは事実だ。いつか、老年を迎えたとき、嘯くのだろうか。人生の最後に青春を持ってきたいと……

 

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