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  桂 一雄   随筆「乱歩小論」 
           
          2017.05.12登録
          2017.06.07改訂
高校教師 

 

    その頃、東京中の町という町、家という家では、二人以上の人が顔を合わせさえすれば、
  まるでお天気の挨拶でもするように、怪人「二十面相」の噂をしていました。

 

 いきなりの引用で恐縮ではあるが、江戸川乱歩の『怪人二十面相』の冒頭である。この引用部分を読んだのが最初の乱歩体験である。クラスのK君がいつも小脇に乱歩の少年探偵シリーズを抱えており、僕もマネした。しかし、抱えているだけではなんだかかっこ悪いような気がしてパラパラページをめくって読み始めたのである。

 当時小学校の図書室には子供向けに書かれた少年探偵シリーズが四十六冊全て揃っていたが借りる児童もなく、埃をかぶっていた。そんな忘れられた書物をK君が引っ張り出し、丹念に目を通しているのを見て、僕もやってみたわけである。

 以上が乱歩体験のイントロダクションであるが、その後はドイルやポーなど外国の探偵推理小説を読んだ。しかし、海外の読み物はたしかにおもしろかったが、どこか猟奇やスリルが足りないように思われる節があったのは否めない。そこで高校生になってからもう一度江戸川乱歩を読むことにした。しかもこの時は大人向けの小説にチャレンジした。子供向けの作品には代筆があることを知り、熱が冷めてしまったのである。

 大人向けの小説を読むとなると、いくつか方法があった。全集で読むのが一つ、それから文庫本を少しずつあつめるというのがもう一つの方法である。

 全集は講談社や桃源社などですでに出版されており、光源社の文庫版全集も刊行が始まっていた。しかし、いずれも高価なために高校生のアルバイト代では購うことが叶わなかった。そこで仕方なく、文庫本でちまちま集めることにしたのである。当時すでに創元推理文庫で乱歩の小説が刊行されており、このシリーズは古本屋で比較的廉価で入手可能であった。それを血眼になって集め始めた。たしか全部で二〇冊刊行されていたように記憶している。

初出の挿絵が用いられており、当時の雰囲気が楽しめるのが創元推理文庫版の長所である。反対に短所は遺漏が多いことである。したがって、このシリーズを読破しても乱歩の大人向けの小説を全て読んだことにはならない。そのため全集などで補完する必要があったのである。このことに気付いたのは大学生になってからだ。

 

 

大学を卒業した後、小遣いに余裕ができた。当然のことではあるが、金回りがよくなると物欲が増す。給料で子供の頃買えなかった本を買おうと思い始めた。この考えの念頭には乱歩の著作があった。

乱歩の書いたものをなるべく多く読みたいという願望は以前からあったが、実際に実行に移すとなると慎重になった。なぜならなるべく重複を避けたかったのである。

たくさん読むには全集が手っ取り早い。こう考えた僕は全集の購入を検討した。そこで全集が何種類出ているのかを調べた。すると戦前の平凡社版からずいぶんたくさんでているのがわかった。

 

A 『江戸川乱歩全集』(平凡社)

B 『江戸川乱歩全集』(桃源社)

C 『江戸川乱歩全集』(全一五巻講談社)

D 『江戸川乱歩全集』(全二五巻講談社)

E 『江戸川乱歩全集』(光文社)

 

以上がその頃、購入するならばと思い、リストアップしたものである。全部で五種類ある。このなかかから一種類だけを買うつもりであったがどれも一長一短で容易には決まらなかった。そこで古本屋めぐりをして出会った全集を買うことにした。だが、いざ買うと決めたらなかなか見つからなかった。やっと見つけたのがそれから二年後である。O市の古本市でDの全集に巡り合った。


 ビニールテントの一角に鎮座している揃いの全集を見つけたときの感動を今でも覚えている。積年の片思いの相手に振り向いてもらったような感じである。ようやく巡り会えた達成感で胸がいっぱいになった。「やっと会えたね」と心の中で呟きながら、手に取ってテントの外にあるレジへ運ぶ。会計が済んだら、すぐに帰宅の途に就いたのを記憶している。

だが、買ったあと、すぐに読む気がしなかった。長い期間探し求めてようやく邂逅したわけであるが、苦労して見つけた割には気分が盛り上がらない。端的に言うならば、乱歩に対する情熱が冷めてしまっていたといえる。

このまま情熱が冷めた状態でも、読み通すことは可能である。しかし、たとえ読破したとしても、自分の中で乱歩に対する情熱が冷めたままで終わるような気がした。つまり、これを読んだらそのまま乱歩とサヨナラをする予感があったのだ。そして結論からいえば、この予感は正しかった。

暇を見つけては読み進め、この三月、遂に全二十五巻の『江戸川乱歩全集』(講談社刊)を読破した。それと同時に乱歩に対する情熱の焔は完全に鎮火した。もう二度と、湧き上がってこないだろう。こうして僕は大乱歩に別れを告げることになった。


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