戻る

  桂 一雄 「ベルグソンのこと」 
           
          2017.04.29登録
高校教師 

一 

 べルグソンの名前を初めて聞いたのは大学三年の頃である。もともと哲学書が好きでニーチェなどは高校生の頃に通読した経験があったが、ベルグソンの名前は聞いたことすらなかった。

 私にベルグソンの名前を教えてくれたのは小林秀雄の「感想」という評論である。この評論は『小林秀雄全作品』に収録されるまで単行本や全集の類には未収録で初出にあたるしかなかった。こうした状況もありなかなか読むことが難しい作品であったのだが、大学3年の私はなけなしのアルバイト代で『全作品』を購入した。これはそもそも卒業論文を書くために用意したのであるがせっかく大枚をはたいて買ったのだからと思い、すみからすみまで耽読することをおもいたち、それを実際に実行に移した。その時に見つけたのが先に述べた「感想」である。これによってベルグソンの名前を知った。

 こうして小林秀雄の批評をきっかけにベルグソンの名前を知ったわけであるが、その哲学を完全に理解できたとはいい難い。

「直観」と「分析」について言及している「形而上学入門」などの初期の論考については繰り返し読んだ。印象に残っている部分は以下二つの引用に端的に表れている。

 

  分析は対象を包み込もうとしながらも、その渇望は永久に充たされずにその対象の周囲をまわらざるをえぬ運命を背負わされており………[以下略]

 

直観とは、対象そのものにおいて独自的であり、したがって言葉をもって表現しえないものと合一するために、対象の内部へと自己を移そうとするための共感sympathieを意味している。

 

序盤に登場するこの二つのセンテンスを読んだとき、単純な私は「直観」と「分析」が対極にあるものと思い込んだ。そして「直観」の人になろうとした。これはつまり、ベルグソンの哲学の根幹は「直観」であると早合点したために起きたといえる。その後、「形而上学入門」を読み進めていき次のような文脈に出くわし、ベルグソンがわからなくなるのである。

 

分析を出発させ、それ自身は分析の背後へ隠れてしまう単純な動作は、分析的能力とはまったく異なった能力から発する。このものこそまさしく、その定義から言って直観なのである。

 

 対極的な位置にあり、交わることのないかに思われた「分析」と「直観」は結論部分において接続するのである。この結論部分を読んでその意味するところを理解した時、私は自分の早とちりを恥じた。

 

 

 ベルグソンとの関わりは他にもある。それは中央公論社から出ていた『世界の名著 五十三巻 ベルクソン』をめぐる思い出である。大学生の頃にお世話になっていたK先生がベルグソンについて書く事になった。

執筆に当たり必要な刊行物を集めて読む必要があったが、先生は特に『世界の名著 五十三巻 ベルクソン』について目を通す必要性を感じておられた。この本の「道徳と宗教の二つの源泉」をどうしても読みたいのだと語られていた。しかし、なかなか見つからなかったようである。それもそのはずで当時すでに「世界の名著」というシリーズは絶版になっていた。

先生はインターネットをやらないので「日本の古本屋」やヤフオクなども知らない。そのような状況であるから、古本屋での購入しか手がなかった。だが、古書店での購入は一期一会である。探している本に出会わないことの方が多い。そして、先生はこの本に出会うことがなかったようである。なかなか本が見つからない苦労を先生は会食中にぽつりと漏らされた。

 先生から話を聞いた私はこれからすぐにその本を買いに行きましょうと進言した。これに対して探している本の在り処をなぜ私が知っているのかいぶかしむと同時に驚いておられた。続けて、私には文献を探す嗅覚があるのです、と告げた私の言葉に信じられないという顔をされながら聞き入っておられた。

 私の進言を聞いてびっくりされていた先生であったが、すぐに納得され、食事もそこそこに切り上げて二人揃って車に乗り込んだ。

 先生が運転し、私が道案内をすること一五分、車が店の前に着いた。だが、着いたのは良いが駐車スペースが見当たらない。そこで車から降りて店内に入り、店主に駐車場の場所を聞いた。すると裏にあるとのことで、車に戻り先生にその宗お伝えし、店内で待っていた。その後五分も経たずに先生は店へ戻ってきた。そして、店内の西側の棚に案内し、そこに陳列されている『世界の名著 五十三巻 ベルクソン』を先生に手渡したのである。こうして先生は探していた本を落手した。このことによって先生のベルグソン論にいささかではあるが貢献したと自負している。

 以上がベルグソンとの関わりであるが、彼の哲学は比喩に富み、そのために表現の美しさにばかり目が行きがちである。しかし、繊細な文学的な表現のなかにも骨太な思考の跡があるこのことを見逃してはならない。繰り返しになるが、直観は分析に接続するのである。ここまで書いたら、「ベルクソン哲学の要諦は直観にこそある」と力説されたK先生のセリフを思い出した。