戻る

  服部 周   短編集 
                 「音」
                 「記憶」
      
           「二分の一」
登録 2017年10月18日

===========================================

    音                服部 周

=========================================== 

 

  急に周りの音が消え、雨音だけが残ったような気がした。

 

店内にさっきまで邪魔にならない程度に流れていた音楽が止まったのを境に、四、五人ほどの客の笑い声や、お喋りが一斉に途切れた。すると天井を激しく叩く雨音、道路を滑るように走る車のタイヤの音が、増幅して香織の耳へ飛び込んで来た。このまま身体ごと雨に包まれてしまいたい、そんな思いがふと香織の脳裏を走った。

目の前に座っている亮介は焦点の定まらない眼差しを窓外の激しく降る雨に向けている。

 服装を変えるだけでは人間の中身は変わらない。そんな例えのように、合うたびにのらりくらりと亮介が話す内容は、本質的にはいつも一緒で最後に辿り着く結末もいつもと同じである。

 どうしてなのだろう、どうして香織は亮介とこうして一緒にいるのだろうか、と考えながら窓の外を眺める亮介の横顔をまじまじと眺めた。

悪びれた様子もなく、ただ無邪気になにも考えずにいるように思える。

「お水よろしいですか?」

 ウエイトレスが水滴を光らせているボトルを持って立っている。香織はグラスを手で塞ぎ、亮介はグラスをウエイトレスに差し出した。

 気が付くと、店内には先程とは全く違う陽気なボサノバ調の音楽が流れ、客たちの会話も始まっていた。

 同じことを言っているのは自分ではないだろうか。その店内の均一な音の世界で香織はふと思った。ドラムの前で同じ個所を必死に叩き続ける自分の姿が、鮮明に頭の中に浮んだ。

 同じ場所を叩き続けても同じ音しか返って来ない。強弱で音の大きさは変えられるが、本質的な音は同じではないだろうか。亮介の同じところをいつも香織は叩いていたのかも知れない。

「どうかしたの?」

 亮介は窓外に向けていた視線を香織に戻した。

「亮介は、どこまで先のことを考える?」

「なにそれ、どこまで先って、おじいちゃんになる頃までのこと・・・」意味が分からないというように、笑いながら首をすくめた。

「じゃあさあ、今度はどんな音が出るのか試してみたい」

 香織が真剣に言うので、亮介は更に分からないというような、困った表情で香織を見つめた。

 店内の雑音が、今度はいろんな大きさや種類になって香織の耳から身体へと流れ込んで来るように感じた。

 その一つ一つに耳を傾けるのは不可能であろう、でも違いを感じることが出来るようになればいいと香織は思った。

 窓の外が少し明るくなってきた。と思ったら先ほどの激しい雨は嘘のように上がっていた。雨に包まれて溶けてしまいたいと思っていた先ほどの感情は、雨が上がって行くように香織の中から消えていた。

 

 

========================================= 

    記憶           服部 周

========================================= 

 

 席に付いたのと同時に、雨脚が強くなった。

 やっぱり立ち寄って良かった。舞は激しく降り始めた雨を見ながら思った。塾への母親の車の迎えの時間潰しに図書館へ入ったまでは良かったのであるが、図書館の閉館時間が思っていた以上に早く、どうしたものかと図書館の玄関前で考えていると雨がぱらつき始めた。傘を持って来なかった舞は、道を隔てた前のカフエに飛び込んだのであった。

 少し濡れてしまったカバンや服を拭いていると、カフエのマスターであろうか、男が水とメニューを運んできた。舞はその男をちらりと見た。男は怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻り、「またお呼びください」と言って戻って行った。

 あの時と同じ人だ。男の後ろ姿を目で追いながら思う。メニューを捲りながら、店内をぐるりと見回した。あの頃に比べて、緑が増え、家具の配置なども変わっている。

 舞がこのカフエを初めて訪ねたのは、今から四年前の小学六年生のときであった。その当時仲の良かった理恵子に連れられて来たのが最初であった。このカフエは外観から子供の目から見てもお洒落であった。そんなお洒落なカフエに子供同士で入るのは憚られた。親と来たことも無いお店だから尚更である。

 理恵子はクラスでも浮いた存在であった。だからといって変だとか嫌な性格ではなかった。理恵子の親は町医者で裕福だったから、舞のような普通の家庭に育った子供とは感覚が合わないところがあった。理恵子とは家が近所であったので一緒に遊んだりして行動を共にしていた。理恵子がなぜこのカフエに入ろうとしたのか、未だに分からない。図書館の横にある公園で遊んでいた帰りに、理恵子に誘われてこのカフエに入った。小銭しか持っていない小学生には、ただのカフエが高級店に見えた。スーパーで駄菓子を買うのとは訳が違う。

 二人でケーキを二個頼みジュースは一人分しか頼まなかった。

緊張していた舞は横の理恵子をそっと盗み見をした。理恵子は今まで見たことも無い強張った顔つきであった。そんな理恵子の顔を見て舞は安心した。しばらくすると男がケーキとジュースを運んできた。ジュースは一人分を小さめの二つのグラスに分けて入っていた。それを見て二人の顔に笑顔が零れた。気を利かせてくれた男に、二人は礼を言うと、男は照れたよう顔をして、

「初めての小学生のお客さんだよ」

 と言って笑った。舞と理恵子も釣られて笑った。

 それから何度か二人はカフエを訪ねた。二人でケーキを一個注文すると、切り分けて二つのお皿に入れてくれた。二人は慣れて来るとカウンター席に座って、マスターである男の人とも喋るようになった。学校や塾のたわい無いお喋りであったが、マスターは子供だと馬鹿にしないできちんと聞いてくれた。

 そんな日が続いたが、狭い田舎町では人の目がうるさくて、親にばれてしまった。

 なぜ行っては行けないのか正当な理由はなかったが、ただ子供同士でカフエに出入りするのは好ましくないということだったらしい。

 それから舞はこのカフエを訪ねることは無かった。中学生になると理恵子は隣町の私立の中高一貫校に通うになり、地元の中学に通う舞とは自然と疎遠になっていった。バスで理恵子を見かけることはあったが、二人は声を掛けることは無かった。

 

 運ばれてきた湯気の立つミルクテイーをかき混ぜながら舞は思う。理恵子はあれからこのカフエに来たことはあるのだろうか。マスターは初めて来た小学生の客の事を覚えているだろうか。

 数年しか経っていないのに、あの頃の自分と現在の自分との差を舞は感じる。理恵子と来た時にカフエのこの場所で感じたことと、今考えていると事の差が余りにも大きすぎて舞は可笑しくなった。

そろそろ決めなくてはいけないのだ。ただ何もわからずにつれて来られて、訳も分からずに来れなくなってしまった自分ではもうないのだ。ちゃんと自分のことは自分で決めるのだ。

 

 帰り際に思い切って舞はマスターに尋ねてみた。

「覚えていますか」

 マスターは最初に見せた怪訝そうな顔をして、申し訳なさそうな顔で覚えていないと謝った。

 舞はいつか理恵子と二人でもう一度このカフエに来て、もう一度聞いてみようと思った。

「覚えていますか」と。

 

 

  

=========================================== 

    二分の一         服部  周

=========================================== 

 

 ガラスの向こう側にもまだ店が続いているような錯覚に陥る。

 ゆったりと奥行きのある一枚板のカウンターのひんやりした感触を頬に感じながら正人は思う。

このカンターの横には大きな額縁のような窓が取られてある。日が落ちると暗闇に店内が映し出される。そこにはこっちに向かって頬をカウンターにつけたもう一人の正人がいた。自分と向き合っているのが可笑しく正人は顔を上げた。

そしてコーヒーを口にしていないことに気づく。何時からか自然に正人のコーヒーに砂糖とミルクが付いてこなくなった。いつもブラックでコーヒーを飲むお客には自然と砂糖とミルクは省略されるのであろうか。こうして最初から出されなくなると、なんとなくミルクだけほしいと言いづらい。

少し冷めてしまったコーヒーにミルクを入れたいなあ、と思いつつ口にカップを運びかけたとき、声が掛かった。

いつも黙って仕事をしているマスターと思しき男が、「お仕事の帰りですか」と声を掛けてきた。カウンターには正人以外客はいなかったが、突然の言葉に一瞬辺りを見回してから、マスターらしき男を改めて見た。

この三日間同じ時間に同じ場所に座る客は珍しいのか、また退屈そうにしている正人を気の毒に思ったのか。

正人は気のない返事を口の中でもぞもぞと言った。マスターは正人の生返事に一瞬戸惑った顔をした。そんなマスターを反対に気の毒に思い、

「ああ、会社がこの近くなので」

 気を遣って答えたつもりの正人であったが、マスターからは

「ああそうなんですか」とあっさりした言葉が帰って来ただけで、すぐに裏の厨房らしきところに消えた。

 

 今日で三日連続同じ時間に来ている。自分でも馬鹿じゃないかしら、と正人は思う。そんなことをしないと自分で自分の背中を押せないのかと、

ちょっとした願掛けみたいなものの始まりだった。一ケ月前のことであった。通勤で往復いつもこの店の前を通る。店の五十メートルほど先には十字路の交差点がある。この交差点は早く信号が変わるのでいつも赤信号に引っ掛かってしまう。その日会社からの帰り道珍しく青信号ですぐに渡れた。気分を良くした正人はいつも前を通るだけだったこの店に入ってみようという気になった。そして帰り、店の駐車場を出て左の交差点を見ると、信号機は青で、その上に綺麗な三日月が浮んでいた。その三日月を眺めながら、正人は願掛けを思いついたのである。

 

この信号機が往復三日続いて青信号だったら、清美に電話をしてみよう。今日がその三日目だった。この店を出て信号は青だろうか。正人は暗闇の窓ガラスの自分を見つめながら、最後に清美に電話をしたのはいつだったか。清美からの取らない電話がかかって来なくなってどれぐらい経つであろうか。その間自分はなにをしていたのであろうか。どう考えても自分が悪いのである。正人から連絡をしないとどうにもならない話なのであった。信号機が頭に浮かんで正人はまた可笑しくなった。なんて下らない願掛けなのであろうか。これぐらいで連絡することが出来たら、最初から連絡をしておけばよかったのである。でもこうして期待している自分がいるのも正人には分かる。青だったらいいのに。二分の一の確率がとてつもなく大きな確率に思えてきた。

席を立ちレジの前へ立つとマスターが会計をしてくれた。

「いつもありがとうございます」

と笑顔が返って来た。まだ数回しか来ていないのに、と恥ずかしくなったが、何故か悪い気はしなかった。ドアを出る瞬間にもマスターに声を掛けられた。

「頑張ってください」

 そんなはずはない、慌てて後ろを振り返ると、マスターがお辞儀をして立っている。なにを頑張れなのかと、確かめる暇もなくドアが閉まってマスタ―の姿は消えた。

 

 

========================================================================