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  縁 輝    ロンドン在住
        随筆  『高橋さん
                                    2014.09.03
張 一紅 著
「もっと楽しく中国語」unicom Inc 
ほか中国語会話の著書多数

      
       随筆 『高橋さん』

                                          縁 輝

  日本は夢の国ではなかった。それが東京についた時の第一印象でした。お正月前の町は暗くて静か、人通りも少なかった。夜が訪れた時、大きな荷物を持った小さな私は、北区の街角に佇み、この異国の闇に呑み込まれて消えてしまうのではないかと思いました。

  一ヵ月後、昼間は学校に通い、夜は居酒屋でバイトし、何とか留学生らしい生活を始めました。しかし、日本語学校の授業中は、みんな母国語でおしゃべり、あまり勉強にならなかった。夜のバイトは六時間の皿洗い。アパートに着くのが十二時ぐらいになり、クタクタの毎日でした。さらに学費を稼ぐために、掃除の仕事も始めました。上海で建物の設計をしていた私はやがて建物の掃除に転職したのです。

  掃除をしたのは、青山にある日本生命の社員寮でした。最初は恥ずかしくて、人に顔を合わせるのも怖くてドキドキでした。掃除している途中、足音が聞こえると、すぐトイレに隠れ、掃除というよりも、スパイをやっているようでした。毎日、朝はモップ、ゴミの匂いではじまり、午後日本語学校で雑音を聞いて、夜は居酒屋での皿洗いで終ります。先が見えない、私の夢も皿洗いの水に流され、ゴミ袋に詰められて捨ててしまったようです。

  ある日、寂しい気持ちで庭の落ち葉を拾っていた時、「大変ですね。お手伝いしましょうか。」と六十代前後の女性に声をかけられました。秋風に吹かれて、髪がちょっと乱れたこの女性は中国で見た日本ドラマ「おしん」にそっくりです。彼女は隣のビルで掃除している高橋さんという方でした。高橋さんの出現で、私のスパイ生活にピリオドが打たれました。彼女と一緒にいる時、私は以前みたいに隠れることができなくなりました。寮に住んでいる人たちに声をかけられ、時にはリンゴ、みかんなども頂きました。面倒だと思いながらも、私は下手な日本語プラス漢字の筆談で彼女との交流を深めていきました。高橋さんは私が自転車に乗れないと知った時、目を丸くし、「中国は自転車天国ですね。自転車に乗れない人もいるの?」と信じられない様子です。私は自分が大変運動神経が弱い、何回練習しても無理でしたと照れて言いました。次の日、掃除が終ったころ、彼女は自転車を押して、私の前に現れました。その日から、私の後ろで走り回り、練習をさせくれました。一週間後、高橋さん、私、そして、あのかわいそうな自転車と一緒に庭のもみじの下で転倒した時、彼女は「あなたって、本当に運動神経がないのね。」とまっすぐに立っていられないほど笑いました。私も笑った、涙がでるほど。こんなに思い切り笑えたのは、この国に来て初めてでした。あの日、秋の暖かい日差しの下で、庭のもみじが透き通ったように見え、木漏れ日に映った彼女の顔がとっても美しかった。

  高橋さんが「今日一緒にお昼を食べよう。」と言ってくれた時、私はちょっと心配でした。時間もお金もない私は貧乏学生で、カップラーメンを食べるのも贅沢でした。最初の三日間、彼女は「カップ麺が好きですか?防腐剤が入っているから、沢山食べるのは良くないよ。」と言いました。四日目、私がカップ麺を開けようとした時、彼女に「ちょっと待って」と止められ、「今日は張さんの弁当も作ってきたよ。」と手作りの鮭弁当を差し出してくれました。それはその日だけのことと思いましたが、次の日も、その次の日も、やがて秋が終わり、冬が訪れた時も、私はまだ彼女の手作り弁当を食べていました。

日本語学校では、同級生たちも大分変わりました。とっても綺麗な服を着て、大金を稼ぎ、学校からタクシーで帰る女の子もいました。私は相変わらず貧乏で毎日ジーンズ姿でしたが、ジーンズの中の私も変わりました。私にはお金がないけど、明日があります。優しい高橋さんに会える明日があります。授業中私は瞬きもせず、スポンジが水を吸うように先生の教えを聞いていました。時には高橋さんに話したいことを紙に書き出し、先生に直していただきました。もっと知りたい、この国の文化、もっと知りたいこの国の人。私の心の中に、新しい夢が芽生え始めたのです。それから、高橋さんのほかに、田中さん、鈴木さん、渡辺さん、林さん、そして、沢山の日本人を知るようになり、日本は私の第二の故郷になりました…

秋風の中、落ち葉を拾い終わって、高橋さんの掃除道具小屋に入り、二人並んで弁当を食べ、白いご飯と赤い鮭、そして彼女が入れてくれた暖かい日本茶。今までこれほど美味しいものを味わったことがなかった。これからもそれを超える美味しさに巡り会えることは多分ないでしょう。

 

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