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  山神徳子

随筆
『黄色い蕾が風に揺れて
―三重大の思い出―
P105-123
 
  入学の頃
  一枚の色あせた集合写真、上の左端に小さく私の姿も。昭和廿七年(一九五二)三重大学の入学式に撮ったもので男子は全員、黒の学生帽に黒い学生服。女子も黒のスーツ。その中で私一人がグレーのスーツで写っている。細かな縦縞の入った灰色の父の和服を、母が仕立て直して下さった物。出来てきた写真を見て、母は「矢張り、地味だったね」と一言。天然呆けの私は別に何とも感じていなかったから初めて地味な服装かしらと思った。全然、気にするどころか、母の愛情をしみじみ嬉しく感じていた。
  父は、志摩の相差から津まで通学は出来ないし、下宿はお金がかかると考え、神島の校長としての栄転を辞し、伊勢市への転勤を希望した。うまく伊勢市の豊浜中学へ転勤できたのだが、住居がみつからない。やむなく学校の宿直室に父と私は住む事になった。母は、転居先が決まる迄、教員をしている兄とそのまま相差の教員住宅で暮らしていた。私は校長住宅に住む橋本有ちゃんと毎日、小俣の近鉄駅へと田舎道を二十分歩いて電車通学を二カ月続けた。やっと小俣町の新出に借家がみつかり、親子三人の生活が始まったのは六月初めのことだった。
  入学式当日
  高校で寄宿生活を共にした気の合うノキさん(大野木方子)と、二人は行動を共にしていた。受験の二日間、旅館で相部屋だった静岡の良子さんを捜したが見つからない。あんなに素敵な文字で学習カードを作っていたのに、受からなかったのかと気の毒に思った。一方、受験の日、ひときわ顔色が黒ずんで老けている小柄な人を見て、「あんな子も来ているわ、受かるかしら」と囁いて変な安心感を抱いた。その人が合格していた。しかも数学専攻とか、ええっ、人は見かけによらないものだと、浅薄な我が不明を恥じた。
 

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