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  郡 長昭

(遺作) 小説
幕末へと逆流する時を求め(後編)
P127-133
 

  立見健三郎は西南戦争のとき陸軍少佐となり、西郷隆盛率いる薩摩軍を城山に追い詰めた。そのときの立見の活躍は当時の新聞の錦絵に大きく描かれ一躍英雄となっている。明治の日清戦争でも大活躍。次の日露戦争では黒台の戦いで全軍の崩壊をくい止め、かつ反転すると勝利へと導ている。
  日露戦後彼は日本帝国陸軍の最高位・陸軍大将に上り詰めた。薩長閥の中で、賊軍であった桑名藩出身の立見の活躍・出世は驚くべきものであつた。
  彼の肖像写真を見ても、いかにも武士らしい力量と人間の大きさを彷彿させている。
  小林権六郎については、東京の姪が調べて私に教えてくれた。権六郎は兄・重幸より2歳下で立見健三郎と同年齢である。立見にはおよばなかったものの、権六郎も桑名藩の中で文武に秀でた評判の武士であった。二人は小さいころから良きライバルであり、仲もよかった。
  立見は成人してから京都所司代である藩主直属の公用人(藩の外交官)となり、小林権六郎を自分の部下とした。以後二人は行動を共にしている。鳥羽伏見の戦いに敗れ、幕府軍が官軍のために江戸城を明け渡すときに、それに反対する幕臣が再起をきして北陸に向かっている。その中に立見や町田、小林権六郎など桑名藩士たちが加わっていた。
  軍を進める途中宇都宮城を攻撃した。権六郎は逃げる敵を追い川を渡る途中、敵弾に当たり倒れた。これまでと悟った彼は立ち上がると名を名のり、一気に腹を切り死亡した。
  戦闘で城を落とした後、死体を見つけた立見は権六郎の首を切り落とし、日光街道沿いの光明寺に葬るとともに、彼の遺品を桑名の寺に送らせている。
「こんな先祖がいたなんて私たちの誇りよね。ところで世良敏郎についておじさんなんかわかった?」
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