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  小説 『小名峠(冬)』
野上 淳
 


 渉の心の中には、秋祭りのだんじりの思いが残っていた。生まれて初めてだんじりに乗せてもらったときの昂奮が、体のあちこちに残っている。手を握れば撥の感触が指先に甦ってくる。同時に胸の高鳴りが聞こえて太鼓が響く。この感激は一生忘れることはないだろう。思い出すと全身が震える。こんな時同級生にでも会うと、自分の心の中を見透かされそうだが、どうすることも出来ない。
 今日学校の帰りには、校庭の銀杏やポプラの葉はほとんど散っていた。渉は家に着くと、いつものように新聞の束を脇に抱えて、駆け出した。県道の山側には、道に覆いかぶさるように茂っていた雑木の枝枝は、すっかり裸木となっていた。いつもの様に峠の上り口にある神社の石段を登っていくと、境内の裏から和子ちゃんが顔を出した。
「渉兄ちゃん、皆呼んでくるからそこで待ってて」
と言いながら社殿の裏に消えた。しばらくすると同級生の真弓君や大山君、米本君、青木君と南田君そして美人の吉本さん、今年小三になって本校へ通うことになった和子ちゃんと、いつもの七人の元気な顔が神社の森の奥から這い上がった。渉が立っている足元の石段には、ランドセルが積み重なって今にも滑り落ちそうになっている。
石段を降りて峠道に差し掛かると、誰かが叫んだ。「おい、雪やで。雪」
とその声にいっせいに空を見上げたが、それらしいものは降っていない。和子ちゃんは、
「なんや、あれは雪ちゃうでえ。芒の綿やんか」
といつも元気である。今年初めて峠を越えた和子ちゃんは、雪の峠道を知らない。そのうち雪が積もれば泣き出すかも知れないのだ。その雪を待っているのは和子ちゃんだけではなかった。実は渉も雪の便りを待っている一人である。
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