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  小説 『愚直の果て(前編)』
西村壽郎
 


 私が旧制宇治山田中学に入学したのは昭和十六年であった。度会橋に家から自転車で辿りつく迄に三十分はかかる、それから学校迄は中島町から浦口高柳大世古、新道を通って養草寺の角に辿りつく迄に無数の街角を通過しなければならない。何しろ中学一年生にとってⅡからⅤまでのギリシヤ文字の襟章こそは見落としてはならない軍国主義の魔物である。何故ならば市街の学生はみな徒歩通学となっているから何処の世古からこのギリシヤ文字の襟章の上級生が飛び出して来るかもわからないのであった。
 これをうっかりと出会ったときに敬礼をするのを忘れていると後日呼び出されて「お前生意気だ」と言はれてビンタをやられる、と言うのであった。
 然しそれは自分自身が二年生になったときにわかったのであるが発育盛んな年令である、これは特別な者でない限り一年生は他の学年の上級生からはみんな可愛く思われていたのであった。
 それでも家から学校迄の通学時間はどんなに一生懸命ペダルを漕いでも一時間はかかる。
 皆田舎からの自転車通学には学習にも影響が出る程の成績に表われる。
 我々一年生と二年生迄であったかいつも担任の先生が学期末に通信簿を渡して帰って行くとき廊下の壁に成績順を張って行くのである。
それに一学年二百名であって一クラス五十名であるが、トップは誰でラストは誰で二百番であると公表するのである。
 何とむごいことをするもんだと思った。
それにしても田舎からの自転車組はみんな台付きであった。台とは百番のことであった。
 私も一年生の学期末の成績は百二十番であった。それに教練の教官から「お前はいつも笑っている様な顔をしている、もっとしっかりしている顔にならなければいけない」と言われた、
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