戻る

  編集後記
郡 長昭
 


 去年の暮、高倉健と菅原文太が相ついでなくなった。ちょうど脳梗塞をわずらい、入院していた私にとって、大きなショックであった。大げさにいえば、現実感覚が薄れていた私は、高倉健は、私の人生の岐路を左右した人のように思えたのだ。

私は、若い頃東京で、フリーの映画助監督をしていた。劇場映画(トラック野郎など)、教育映画、テレビ映画(ロボコンなど)などをやった。

その頃映画界はドン底といわれるほど斜陽でほとんどの映画関係者は、フリーとして一本ごとの仕事についていた。
助監から助がとれ監督となる登龍門は閉ざされていた。自分で製作資金を集めてくるか、よほど素晴らしい企画か、シナリオで製作会社に売りこむしかなかったのだ。

私は助監督で終ることがたえられず、企画書やシナリオを何度も製作会社に売りこんでいた。
無論に目もとおしてくれず、ボツの山である。

しかし、その一本が学習研究社(学研)のプロデューサーの目に止った。「遠い国から来た少女」という題名のベトナムの少女が、ボートピープルとなって、日本にやってくる物語りである。当時学研は、学生向けの出版物が大もうけし、「児童劇映画」を創りたいと思っていたのだ。

とんとんひょうしに話しが進み、社内の重役達らの了解をえることとなった。私は有頂天となり、シナリオ取材をし、夢中で書きだした。私は、助監督の仕事をことわり、シナリオ創りに全ての時間を注いだ。

神奈川県の大和市にある、ベトナム難民センターにも毎日のようにかよった。その生活は苦しかったが、充実した日々であった。半年もすぎた頃、私をはげまし続けていた私の担当プロデューサーの態度に何かしら変化がおきてきた。そして、顔をそむけるようにして私に言った。「高倉健主演の南極物語という映画の共催することになったんだ。悪いが君の映画はできなくなった」と。

私は世界が崩れる音が聞こえたように思えた。私の青春が終ったのだ。半年後に、私は東京と映画から去り、帰郷した。
無論、高倉健になんのうらみもない。

彼の映画を観る度、ある言葉が浮かんでくる。
フランスのラカンの言った言葉だ。
「日本人は自分に嘘をつくことなく真実を表現することができる」と。  (了)
                             − 173 −

   トップページへ戻る