平成26年4月発行 | 表紙画 『波切にて』/郡 楠昭 |
勢陽本覚寺・釋 恵照 随筆 『天 竺記(てんじくき) 』 6頁 戻る
天竺とはインドのことである。
その国へ旅しようというのである。これまでも二回すでにその国へ行ったことはあるが「観光旅行」であった。
今回は『巡礼』の旅である。浄土真宗に『巡礼』という言葉があったかどうか、通仏教的な感じではあるがそ
のようなのである。神道でも言うのではないか?
『仏跡参拝』ということであるが、「ブッセキ」というからには仏との縁、この場合釈尊との縁、それも
二千五百年前のご縁、釈尊がそこに居たという事実がなければならないという条件を抜きにできない。
しかしそのことにどんな意味があるのか、暇と金と時間とをかける意味とは何なのか。
前々回の「観光」目的によるインド行きの反省という意味が実はあるのである。
あれでは見るものも見えない、という反省である。申し訳なかった、と。
そこに仏やましますか、そこに仏や現にましまし説法をやしましますか、ということであろうか。
釈迦今現にましますや否や。如来働きましますか?否や。
仏といい、ブツといい、釈尊といい、釈迦といい、且(かつ) 最後に「如来」という。
それはそれでいい。
さて、いよいよ「はじめに」と行こう。
〜はじめに〜
なにしろワープロ原稿作成は困難を極める。ほとんどなれてない、
何を書き出すやらその保障もないありさま、どう考えるか、それが「はじめに」の問題。
果たして最後までこの機械で書き切れるのだろうか、巡礼記といいつつなんか「自分記」が始まりそうなんである。
それは致し方ないか、七十才、イイトキダ。
何十枚になろうともこの機械しかないと腹決めよう。
さて『天竺記』とは名告ったがもちろん旅行記となるわけで、かつて史上二つの大旅行記がこのインド旅行に
ついては忘れてはならないものがある。世界史上の著作だ。
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私評: