平成26年4月発行 表紙画 『波切にて』/郡 楠昭


森本正昭     小説 『意味ある偶然』    29頁     戻る

玄関の引き戸を開ける音がした。開けると軽快な呼び鈴が鳴る仕組みになっていた。
父の帰宅だ。帰宅時間はいつも定刻だったので、母は時間を数えるようにして待っている。
呼び鈴の音を耳にすると私を抱えてあわててお迎えに出た。
お帰りなさいと言おうとしたのだが、引き戸は閉まったままでそこには誰も見当たらない。
いつもの威勢のいいご主人さまの姿はない。お迎えは空を切ったのだ。

「あぁ、またやっちゃった」と母は自嘲ぎみに言うと私に少し笑いかけた。
それでもなお、突っかけを履いて外に出て、戸を開けた者がほんとうにいなかったか
どうか確認するかのように、遠くに目をやった。空は夕焼けに照らされていた。
飛行場の方で練習機の軽やかなエンジン音が響いていた。

「もうこの街には住めませんね」というと家の中に小走りに駆け込むのだった。
父の葬儀があってからはや半年になる。
私には視覚的な記憶はないけれど、こんなとき母は私の小さい身体を強く抱きしめるのだった。
その強く圧迫される記憶が残っている。母は言いしれぬ喪失感のなかでも涙を流したりはしなかったと思う。

 (風鈴の音と間違えたのではありませんか)

  一発の銃声が響いた。耐えきれずに引き金を引いた奴が居るのさ。
  パレードはもうお仕舞いだ。戦火が世界へと広がっていった。
  C.ユングは戦争勃発の予知夢を見たという。
  坊や この家に居る限り、あの人はきっと呼び鈴を鳴らしにくるわね。
  あの人は愛しい者の願いを叶えてやろうと懸命になっているのよ。
  坊や 大きくなったら私を助けてね。
  坊や 大人の男になったら私を好きになってね。
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.P13 . (以上は最初の1頁)

概要:日常はたんたんと過ぎ去っていく。その中で、どうしてこんなことが起こるのか不思議でたまらない
ことを体験することがある。その不思議さに挑み、その背後にあるものを明らかにしようとする。